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日記 NOTES

  • 2025.2.1

     

     長い長い1月だった。渋谷の再開発地区に5日間通い詰めになって、舞台を作っていた。昼も夜もお店のものを買って食べていた。真新しいビルの中にはスタバもタリーズも東急ストアもローソンもカルディも飲み屋街もあって、一生ここから出なくても暮らせちゃうね〜って私は隣の人に冗談混じりに言いながら、それを想像してぞっとしていた。
     稽古場は東京らしい風景がよく見渡せるマンションの一室だったし、再開発地区のビルの中にも渋谷の向こうのビル群を眺める窓はあったけれど、会社勤めだった20代の頃よりむしろ、舞台の仕事をするようになったここ数年のほうが、窓も隙間もないスタジオの密閉空間に出かけていくことが増えたような気がする。劇場は外界を遮断して観客を夢の世界に連れていく場所だから、その世界を作るための場所も密閉空間であることは理解できるのだけれど、とにかくその閉ざされた空間にいるあいだじゅう、なんとなく身体が落ち着かない。私はつくづく、風が好きだ、地面が好きだ、日光が好きだ、と思う。
     
     自分の暮らしを見つけること、そこへ向かって生きることは、いつも命懸けだ。大きな予定があると——たとえば自分の関わる舞台の本番とか、本の刊行日とか、とても大切な旅とか——それまでは意地でも死ねないな、と思う。最初に思ったのが15歳のときだったのをはっきり憶えていて、以来、ことあるごとに、そう思うタイミングがやってくる。でも、年齢を重ねると、死の確率は自然と高まってゆくのであって、「意地でも死ねない」が意地で通用するのは何歳くらいまでかな、とも最近は考える。ほんとうは、目の前に何か登るべき大きな山があっても、死ぬ前に登り切れるといいね〜ははは、くらい呑気な感じで構えられるほうが健全なのかもしれない。いまは、どうしても再会したい人がいるから、そうも思っていられないのだけれど。

  • 「渋谷への手紙 〜LOVE HATE SHOW〜」のこと

     

     プリコグのO木さんが、大崎さん、一緒に何かやりませんか? 大崎さんと一緒に、何かやりたいんです、と声をかけてくださったのは、もう三年近く前になる。その「何か」がなんなのか、舞台芸術をゼロから作るのがどういうことなのか、全然わからないまま、とにかくその「何か」を一緒に作りたいと思える人を探すところから、このプロジェクトは始まった。
     2022年秋、O木さんと一緒に、O木さんが教えてくれた中間アヤカさんのこども向け公演『およげ!ショピニアーナ』を京都の公民館のようなところへ観にいった。観客も全員巻きこんで(だけどその巻き込みはほんとうに自然で、いわゆる”観客参加型”のグイグイ来るようなところが一切ないことが感動的だった)、ダイナミックに場の変容が進み、最終的には舞台全体がこどもたちの遊び場と化していたその舞台に、私はめちゃくちゃ感動し、このひとだ!と思った。
     映画監督の佐々木美佳さんとは、そのもうすこし前から知りあいだった。まだコロナの騒動が続く中、映画館がやっと一席空けのルールを考案し、やっとポレポレ東中野で上映された監督作『タゴール・ソングス』のアフタートークに、佐々木さんは私を呼んでくださり、上映後のスクリーンの前で、お互いそういうイベントに慣れないまま、照れながら一緒に話したことが思い出に残っていた。その後、彼女はインドの映画学校に留学することになった。
     この三人でなら、きっと面白い「何か」ができる気がする!とO木さんと話しながら、プリコグの資金繰りや、会場をどこにするか、という話をうすうすと進めているうちに、二年くらいあっという間に経ってしまった。一時期は私のやる気も削がれて、もうこの企画はお蔵入りになるかもな、と思ったこともあった。
     O木さん側からの提案で、会場は渋谷のどこかにと決まり、制作の算段もついて、2024年の夏の終わり、私たちは丸一日かけて酷暑の中を並木橋からサクラステージへ、ヒカリエへ、道玄坂へ、松濤へと歩き回り、へろへろになりながら、途中ファンシーな飲みものを飲んだりしながら、局面状の大きなスクリーンをもつ、同じフロアの飲食店からさまざまな音や匂いが漂ってくる、雑多な雰囲気のあるサクラステージの404 Not Foundを、全員一致で舞台の会場に選んだ。サクラステージは、その夏に建った、渋谷の再開発の中でも最新のビルだった。歩き回りながら、いくらか昔の渋谷を知っている私と佐々木さんは、くらくらとサルトルの眩暈&吐き気を催していた。ひとつの街と、私個人との関係が、こんなにも変わり果ててしまうことがあるのだということ。それは、驚きとか、悲しみとか、そういう単純な言葉じゃぜんっぜん言い表せない。だけど、これだけははっきりしていた。私は、もうぜんっぜん、渋谷のことがわからない。かつてはあんなに親しかった、あなただったのに。
     私は、渋谷に宛てて手紙を書くことにした。手紙を舞台の主題にするアイデアはその前からあった。インド留学中の佐々木さん、神戸を拠点にする中間さん、湘南に暮らす私が、それぞれ遠くにいるままやりとりして作る、渋谷でひらく作品のモチーフとして、手紙はとてもしっくりきた。それで私たちは渋谷を歩き回った日に、ドンキホーテの入口脇でもう誰の目にもとまっていない恋文横町跡地の碑も見た。ステンレス製のその碑の足もとに、風に吹かれて飛んできた紙屑やペットボトルの空き容器が、吹き溜まっていた。

     いま、私たちは都内某所の稽古場に連日通って、やっとその「何か」を作っている。舞台美術に、福留愛さんたちのiii architectsが入ってくださることになった。福留愛さんは、私の散文詩「ヘミングウェイたち」を最初に発表した吉祥寺シアターの「ベンチのためのPlaylist」(構成・演出:萩原雄太)という企画で、劇場のテラスエリアに設置された仮設の電話機を作った人として、私の記憶にあった。それから、音響で中原楽さんが入ってくださることになった。私の旧知の(と、もうそろそろ言ってもいいと思う)サウンドエンジニアである葛西敏彦さんに相談したら、「らくちゃん、らくちゃん! らくちゃんに聞いてみな」と教えてくれて、「分かった!」と私は素直に薦めに従った。舞台監督には、なごみ系男子・河内崇さん。映像には、たのもしい須藤崇規さん。
     顔ぶれが揃って最初のズームミーティングをしたとき、ああ、これ、めちゃくちゃ面白くなるやつ!てか、もう面白い!と私は心密かに思っていた。中心のない、それぞれが勝手に自分の渋谷を考えて、構築していく、リゾーム的製作が始まった。

     というわけで、私の体力的にも、これからの活動的にも、きっと二度とない舞台になります。
     渋谷を愛したことがある、あなた。渋谷なんて好きじゃないよ、のあなた。観に来てください!


    渋谷への手紙 〜LOVE HATE SHOW〜

     ーあなたとお別れするために、この手紙を書いています。
    詩人・大崎清夏 × ダンサー・中間アヤカ × 映画監督・佐々木美佳
    変わりゆく渋谷に宛てた、愛と憎しみの恋文<ラブレター>!

    特設ウェブ(tumblr):https://lovehateshow-shibuya.tumblr.com/

    公演概要
    公演スケジュール:
    2025年
    1月24日(金) 17:00/20:00
    1月25日(土) 13:00/16:00/19:00
    1月26日(日) 12:00/15:00

    会場:404 Not Found
    〒150-0031 東京都渋谷区桜丘町1-4 Shibuya Sakura Stage SHIBUYA SIDE 4F
    https://www.404shibuya.tokyo/

    チケット:一般¥3,000(当日券+¥500)

    【手紙割 -¥500】
    本公演ではあなたが渋谷の雑踏に捨て去りたい、愛の手紙を募集します。お送りいただいた手紙は、公演内で責任をもって処分させていただきます。404 Not Found内にて便箋を配布中。書いた手紙は、会場内のポストへ投函してください。
    手紙を1月23日(木)までに投函してくださった方はチケット代¥500割引いたします。
    手紙の書き方・詳細はこちら

    <適用条件>
    ・peatixにてクーポンコード「letter」をご使用ください。
    ・申込時の備考欄には封筒に記載したお名前(ペンネーム可)をご記入ください。
    ・手紙の投函が確認できなかった場合は当日差額を頂戴します。

    ※鑑賞サポートの内容およびご予約方法については、1月8日(水)にお知らせいたします。

    作品概要
    渋谷にはかつて、恋文を代筆する店が存在していた。そして、いつしか人々はその通りを「恋文横丁」と呼ぶようになった。
    それから半世紀、昭和~平成~令和と時代を経て、街はすっかりと変わり、今も目まぐるしく変わり続けている。
    そんな変わりゆく渋谷に向けて、3名のアーティストが今、恋文をしたためる。

    さまざまな分野と積極的に交わり、言葉の可能性を拡張し続ける詩人・大崎清夏、「現象」としてのダンスを追い求めパフォーマンスを展開するダンサー・中間アヤカ、ドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』で詩や歌の存在に繊細に迫った映画監督・佐々木美佳、初のコラボレーションが実現!
    舞台は、大規模な再開発によって誕生した、オープン間もない商業施設Shibuya Sakura Stageの一角にあるスペース404 Not Found。

    渋谷の真ん中で、言葉が、映像が、ダンスが、交差する。
    まわる時代を駆け抜ける、予測不能のコラボレーション。
    LOVE HATE SHOWの開幕!

    キャンセルポリシー
    ご予約後のお客様都合でのキャンセルは返金不可。
    変更も原則不可。
    peatixでのチケット譲渡をご利用ください。

    クレジット

    構成:大崎清夏(語る人)、中間アヤカ(踊る人)、佐々木美佳(映す人)

    空間設計:iii architects 舞台監督:河内崇 映像:須藤崇規 音響:中原楽(KARABINER inc.) 宣伝美術:廣田碧(看太郎)
    音声ガイド:舞台ナビLAMP
    プロデューサー:黄木多美子(precog)、遠藤七海
    鑑賞サポート制作:加藤奈紬
    制作アシスタント:石川佳音(precog)

    主催・企画制作:株式会社precog
    助成:芸術文化振興基金、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京【東京ライブ・ステージ応援助成/東京芸術文化鑑賞サポート助成】
    本事業の鑑賞サポートは、誰もが芸術文化に触れることができる社会の実現に向けて、「東京文化戦略 2030」の取組「クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョー」の一環としてアーツカウンシル東京が助成しています。

    協力:小声 会場協力:404 Not Found 稽古場協力:Yuuragi.

    お問い合わせ
    株式会社precog
    https://precog-jp.net/
    〒162-0801 東京都新宿区山吹町358番地 小磯大竹ビル202
    TEL:03-3528-9713 MAIL:ticket.precog@gmail.com

  • 2024.12.31-2025.1.1

     

     大晦日は晴れ。年明けにしめきりが迫っている原稿を進めるつもりだったけれど、頭も身体も電池切れのようになってしまって、一文字も書き進められなかった。ことしの仕事はもう諦めて、午後、一年分のお礼を言いに行くような気持ちで、海まで散歩に出た。まあまあ強い砂っぽい風が吹いていて、人のまばらな海だった。帰りがけにスーパーに寄って買いもの。いちご、白菜、大根、にんじん、スライスチーズ、ピザ用チーズ、いぶりがっこなど買う。
     とても静かな大晦日。白菜・にんじん・ハムのミルク味噌スープで夕餉にして、明日の新年会のための紅白なますを作り、ことしは紅白も見ず、本を読んで、年越しの瞬間はお風呂の湯船に浸かっていた。

     翌朝は六時半起床。よく晴れて気持ちのいい朝だった。休日ダイヤのバスに乗って駅へ向かうとき、車窓から川の向こうに昇る初日が見えて、思わず写真を撮った。バスの乗客は私ひとり。元旦の藤沢駅も人はまばらで、私はまた辺りの写真を撮った。来年のきょう、私はたぶんここにはいない、どこにいるにせよ、きっとここではない。東京に向かう東海道線の車内にも、窓から冬の朝日が射しこんでいた。ぽつりぽつり乗降する人はひとりの人ばかりだった。
     インスタライブの準備の時間まで少し間があったから、目黒の駅前のファミマでコーヒーを買って、朝日を浴びながらうろうろ歩いた。語義矛盾みたいに静かな東京。そこに身を浸しているだけで少し嬉しかった。元旦の朝八時に東京のまちなかにいたことなんてあったかな。すくなくとも、こんなふうにひとりで朝日を浴びて歩いていたことはなかった気がする。でも東京の冬の朝はどこか懐かしくて優しかった。こんなふうに過ごすお正月は最初で最後かもしれないと思って、でもどのお正月も最初で最後だった、と当たり前のことを思った。
     スタジオには10時から始まるインスタライブのためにさいはての朗読劇のチームが集まって、遠くにいる人はライブの画面の中で中継で繋がって、わいわいわちゃわちゃ、3時間のライブをやり遂げた。きょうこの日をみんなとともに過ごせることが心強くて嬉しくて、そうか、そのために企画されたインスタライブだったんだった、といまさら思い至る。
     ライブの後にそのまま始まった朗読劇チームの新年会を先に抜けて海に戻り、つい先日友達になったばかりの女の子と片瀬江ノ島駅で待ちあわせて、海辺を歩いた。人待ちするあいだも、橋のたもとで陽を浴びた。海は昨日とはうってかわって穏やかで、人がたくさんいるのに静かだった。波はほとんどなく、ちゃぷーんと揺蕩う湖みたいな水面だった。一年前のきょうも海辺を歩いていたことを思った。きょうの後半を、自分の暮らす場所で、ひとりではなく過ごせることは素敵だった。私たちはふたりで会うのは初めてだったし、これまでにもじっくり話したことは一度くらいしかなかったけれど、共通の知人も多く、地のテンポが似ていて、終始ゆったりした気持ちで過ごした。
     歌うことを仕事にしている彼女の去年の旅の多さは私以上で、数えてみたら25都道府県、20旅くらいしたと言って、おもたせに高知土産の鮮やかな緑の青のりをくれた。旅先がもうスーパーだと思っちゃってる、とちかごろ旅先で食材ばかり買っている私が言うと、そうそう、わかる、と彼女が笑いながら同意した。大きな公園はいい、という話や、ひとりでする暮らしとふたりでする暮らしの違いについてや、この春に居場所を動く人がなぜか周りにすごくたくさんいる、という話で盛りあがった。私の去年のいろんな旅から持ち帰ったあれこれと戴きものを駆使して作ったお雑煮は、ふたりとも「えっ」と声が出てしまうほど美味しくできて、私たちは大満足で新年会のメニューを完食した。

    新年会献立:とちおとめ、那須のふきのとうごんぼ(戴き物)、紅白なます、お雑煮
    お雑煮:鶏肉、菜花、珠洲のもちふ、珠洲の揚げ浜塩、らうす昆布のひれ、揚げ焼きのお餅、高知の青のり(戴き物)

  • 2024.12.22

     

     冬至をこころまちにするようになったのは、何年くらい前からだろう。もうこれ以上、夜は長くならない。明日からはまた一歩一歩、明るい時間が長くなる。そう思うだけで、全身が少しほっとする。きょうの金沢は曇り空だったけれど、空気が明るく光って見えた。
     ことしの冬至は昨日で、おととい私はことし最後の珠洲での仕事を終えた。数えてみたら、通算五回珠洲に来ていた。七月、一〇月、一一月、一二月に二回。朗読劇の公演本番のあった去年より一昨年より多い回数だった。関わり続けるということの、良さも難しさも感じた一年になった。
     珠洲だけでなく、ほんとうにことしは移動の多い年だった。尾道に行き、そこから京都を通過して琵琶湖を巡り、札幌に飛び、奥会津を再訪し、山形の山へ分け入り、岐阜にも行った。五年ぶりに海外にも出かけた。金沢も何度来たことか、名古屋を何度通ったことか。どの旅も大切な旅になったけれど、来年はもう少し違う動きかた、立ち止まりかたができるといい。ほんとうに、私はすこし、ゆっくり立ち止まりたくなった。たぶんことしは、自分の移動能力の限界に挑戦したような年だった。その限界を知ったことが、またひとつ自分自身を発見するようなことだった。

     昨日はふるさとタクシーで能登空港まで戻り、路線バスに乗り換えて金沢に来た。雨が一日降っていた。里山海道の周りに霧が漂って、バスの窓外の景色が煙っていた。金沢駅前からもうひとつ路線バスに乗り、お昼過ぎにかのちゃんの留守宅に着いて、教わっていた通りに家に入った。部屋を暖めて、五匹の猫たち(はつ、なつ、どっちゃん、くるみ、こむぎ(やっと全員の名前を憶えた!))にまみれてソファで昼寝をして、読みかけの本の続きを読んだ。台所にあったフリーズドライのミネストローネスープにお湯を注いで飲んだ。夕方、長電話をひとつした。バスタブにお湯を張って、温まって、眠った。
     きょう、かのちゃんは東京での一週間の仕事を終えてお昼前に長旅から帰ってきて、すぐその足で私を車に乗せて野々市のワークショップ会場まで運んでくれた。彼女とその珠洲時代からの仲間であるゆざさんが企画してくれた、セミクローズドの日記のワークショップ。参加してくれたのは被災して金沢近辺に二次避難している方々だった。お茶とお菓子を傍らに、肩肘張らずに、自己紹介してもらったり、能登とご自身の関わりを話してもらったりしたあとで、日記をかく時間をとった。それからひとりずつ、自分の書いた日記を声に出して読んだ。静かで、優しい時間だった。
     こういうふうに、初対面の人たちとやりとりすることも、ここ数年、一気に増えた。そういうときにどれくらい自分を晒すのか、どういう態度でその場にいるのか、毎回わからなくて緊張する。でも、最近はもうその場その場で直感的に判断して、なんとかどうやら自分も愉しみながら、切り抜けていく感じになった。詩を読むことも、言葉を書くことも、一部の人の閉じた世界であってはいけない、ひらかれてあってほしいと思う。どんな人でも、自分の一日の出来事や考えをしたためることを楽しめる世界であってほしい。移動の疲れにぶーぶー文句を言いながらも、ついこういうワークショップを引き受けてしまう理由は、そういうことなのかもしれない。

  • 2024.12.11

     

     優しい人たちと手あてのような食べものによる治癒のおかげで、私はできるだけ走らないほうへ舵をきり、心の落ち着きを取り戻し、ありがとう、ありがとうと唱えています。あ、トップページの写真を変えました。原稿はあいかわらず山積みだけれど、ぺろにもまだ会えないけれど、書いているし、読んでいる。私の肺は、機能しています。
     忙殺されていた日々の隙間からひゅっと投げこまれるようにして『暗闇に手をひらく』の見本が届き、それをすこしずつ人にも送り、渡し、私はここへ帰ってくればいいのだとわかって、そうわかることで命が助かって。その本の刊行記念イベントの晩は、今年最後の満月です。

     午前中、調べもののため国会図書館へ。ここはほんとうに面白いところで、あんなにたくさんの人が集ってなお沈黙が支配していて、どの人もそれぞれの求める知に向かい、書架のどこかから資料を手配してきてくれる司書さんたちはぴたっぴたっと間違いのない仕事をして、建物のいたるところに天使の気配がある。コートやリュックを預けるロッカーは市民プールのそれのようで、必要最低限のものだけを半透明のバッグに詰め替えてその石造りの建物に入ってゆく私たちはみんな幽霊か何かに似た、薄い皮膚状のものになる。閲覧室には自分が何を知りたいのかを知っている大人しかおらず、基本的に飲食はゆるされておらず、空気は固く気高い。閲覧や印刷や複写のシステムが完璧に統御されていて、求める資料をリストアップしていくうちに、自分自身がシステムの中の半導体の中の何かを通電させる部品になってゆく感じがあり、それがけっしてわるい気分じゃないのがふしぎだ。適切な手順をふめば確実に求める書誌にアクセスできるという、人間の権利を行使している手応えがあるからかもしれない。
     門前の銀杏並木がりっぱで、出てすぐのところに新橋駅行きのバス停があり、そのバスに乗ればサッと帰れて、新橋駅には私のお気に入りの立ち食い鮨のチェーンがある。そんなわけできょうのランチはお鮨六貫、炙りにしんでフィニッシュ。ハマりそう。

  • 2024.12.01

     

     昨日仕上げるはずだった原稿がまだ終わらない。夏だか秋だかにひいたおみくじに「旅 − 出すぎるな」と書いてあったのに(どこでひいたんだろう、あれは?)、どうしても書いてみたくなってしまった原稿の取材のためにベネチアまで行き(5年ぶりの国際線!)、それは3泊6日という途方もない旅程で、じさぼけからもまだ完全に復帰しないまま、明日はまた新幹線に乗る。10月末からずっとミマルさんに預けっぱなしのぺろがいよいよ恋しい。
     今回の人生における自分の仕事をやりきりたい気持ちと、いま受け持てるキャパシティのバランスがうまくとれていない。去年の半ばくらいからその傾向はあって、だから今年の前半はすこし思いきって仕事を減らしてみたりしたのだけれど、減らしたところにすうっとまた新しい依頼が舞いこんで、それがまた「ぜひやらせてください、絶対にやらせてください、それは、私が!」としか返事のしようのない案件だったりして、結局は忙しく駆け抜けてしまった。
     幸運なのだと思う。頼もしい仕事仲間がいて、私を求めてくれる人がいて、それが子どもの頃からずっと夢みていた仕事で。「うかうかしてると、夢は叶う」(by 折坂悠太)。そして、そういう時期なのだとも思う。引き受けたいこと、追究したいこと、掬いたい景色も収穫すべき言葉も、あっちにもこっちにもたわわに実っていて、それが稀有なことだとわかるから、つい欲張って目移りしてしまう。読書も並行読みしすぎて、全部中途半端に読みかけたまま。
     移動続きの日々の隙間に、住みかの近くで藤の種をみつけて拾ったり、自分の手になじんだやりかたで野菜を蒸して慎ましく食べたり、ろうそくに火を灯して見たり、部屋を掃除して整えたり、友達と言葉をかわしたりすることが、文字通りの息抜きになって、なんとか持ち堪えている。
     でもほんとうは、もっとじっくり、しんとした水面になりたい。いちばん微かな音で鳴っている詩にみみをすましにいきたい。地と図を反転させなきゃならない。会社を辞めたときや、東京を離れると決めたときや、ほかにもたくさんの、こまかな決断のなかで、小さく小さく、たまに大きく、暮らしの地と図を反転させてきたから、こういう私になった。だったらきっと、そのやりかたはもう、私の身体に染みついているはずだ。きょうが新月だってことにも気づかないなんて、そんな進みかたはだめ、たぶん、何かがとても、圧倒的に間違っている。
     それで、きょうから師走だって? できるだけ走らないぞ、私は。

  • 2024.10.30

     

     月曜日、飛行機でのと里山空港に降りたって、また珠洲に来た。7月以来、ほぼ4か月ぶりの珠洲いり。9月21日の豪雨で打ち上がり流れ着いた木っ端が、ところどころ道路の脇に溜まっている。それを横目に滞在先の宿舎まで、車は今回もイトウくんの運転にお世話になった。能登に来るのが初めてのキヅさんも同乗。カーステレオから民謡クルセイダーズが流れている。
     宿に荷物を置いてあみだ湯に寄ると、いつのまにかギターが三本も常備されていて笑った。偶然来ていて会えた楓くんと岐阜ばなしをし、ココ(猫)と仲良くなり、アコさんの近況を聞き、すっかりあみだ湯の寮母さんのようになっているアコさんと連れだって、夕飯の買い出しにいった(この日は別のチームがカレーうどんとコロッケを用意してくれることになり、私はれんこんの甘酢漬けだけ作った)。斜めに傾いた信号機が、もう目になじんでしまっている。
     日暮れどき、明日イベントをさせてもらう〈いろは書店〉に挨拶に行ったら、通りでつぼのさんに会えた。いろは書店店主のアツナリさんにイベントの内容を解説していたら、私の大ファンのおじさんであるヒラノさんが漫画を買いに来て、えーっ!と言いながら挨拶していたらヒラノさんの鞄から『私運転日記』が出てきたので、えーっ!とまた笑って、笑いながらサインをした。
     夜、あみだ湯のお湯に浸かって温まってから、ボランティアのみんなとごはんを囲んだ。イトウくんが最近行ったという上五島のお土産にかわいいステンドグラスの柄のマスキングテープをいろいろ買ってきてくれていて、私たちはそれぞれ好きなのを選んだ。何か復興の役に立ちたい、ともかくひとまずあみだ湯と繋がりを作りたい、という感じの若者がたくさん来ていて、あちこちで名刺交換が勃発している。なんだかそれが『バガボンド』に出てくる野武士たちの手合わせのように見えてしまって(no offence!)、名刺を持っていない私はその光景からやや距離を保ちながら、ボブ・ディランの「風に吹かれて」をイトウくんのギターでひっそり歌った。
     何日か前、これから出会う人への敬意のために、ちゃんと名刺を増刷しようと決めたばかりだった。肩書きのない、自分の氏名を漢字とひらがなで書いて、連絡先だけを載せた名刺。詩人の仕事がよちよち始まった頃、銀座の中村活字という活版印刷のお店で作ってもらった。100年続いてきた活版印刷の道具たちのいる安心な店で、おじさんはよく笑う江戸っ子で、いい人だった。それいらい、ずっとそこで名刺を作ってもらっている。一枚100えんくらいかかるから、あまり人には渡さない。増刷してもたぶん、基本は名刺がないふりで通すだろう。

     火曜日、午前中に遠くの友達へ手紙を書いて、宿で原稿仕事をひとつ片づけて、お昼は〈のんち〉で牛すじうどん(1,200えん)を食べて、すこしだけ昼寝をして、いろは書店に向かった。
     豪雨のあと、私のへなちょこ体力では泥かきの人手にもならないよねきっと、とサイカイちゃんに相談したら「大崎さんが来てくれるならゆっくりみんなで話す会がしたい」と言ってくれたから、ふたりで手弁当で企画してみた、哲学対話の会。珠洲に暮らす人、高校生、滞在中のアーティストや取材の人、イトウくんとキヅさんも参加してくれて、問いは「物と暮らすって、なんだ?」に決まった。物とモノ、もののけ、物語、形見、思い出、執着、積ん読、全壊した店から救出したパソコン4台、善意で届いてしまったダウンジャケット2000箱、捨てられなかった箪笥……あっちこっちに話は展開して、みんなでもやもやした。いい時間だった、とてもいい対話だった。哲学対話をしていると、みんなで沈黙を味わう時間が必ずやってくる。その時間が苦手な人もきっといるけれど、私はその時間が哲学対話の醍醐味のような気がしていて、今回は「沈黙の時間が訪れたら、哲学対話の天使がきてると思ってみて」と話した。
     会はつつがなくおひらきになって、私はそのあと、高校生や近所の人がみんなで世話しているモイ(犬)の散歩にサイカイちゃんと付いていって、もう暗くなった珠洲の町をうろうろ歩きながら、お互いの近況報告をした。大好きな居酒屋へ飲みにいって、お店が閉まるまでお酒(奥能登)をグラスに三杯飲み、なかなかの酔っぱらいかたをして、宿へ帰った。

     きょうは水曜日。お昼はまた〈のんち〉に行った。午後は今度の江の島イベントの打ち合わせのため、海沿いの事務所でどんぐりの会のみなさんと会った。キヅさんたちは大谷の様子を見にいったけれど、私はなんとなく行こうと思えなくて、あみだ湯でぼんやり紅茶を飲んで、それからゆっくり夕飯の仕度に取りかかった。メニューは平松洋子さんのパセリカレーと、きのこのマリネ、れんこん甘酢漬け残り。それと、ボランティアで力仕事に入っているお兄さんが途中まで作って私が味を決めたあら汁。あみだ湯は定休日で、ロビーには静かなまったりした時間が流れている。ココとモイが見合っている。明日の朝、珠洲を出る。

  • 2024.10.09

     

     大学の秋学期の非常勤の仕事がきのう一区切りついたから、昨晩は部屋で缶ビールを飲んで崎陽軒の「おべんとう秋」を食べ、好きな歌を歌った。けさ目覚めると空気は急に冷えこんでいて、雨の降る音が窓越しに聞こえた。ぺろは私と交代で布団に潜りこみ、私は颯爽と電気ストーブを出してつけ、意気揚々と温かいお茶をいれて、12月に向けた本作りのゲラに赤字をいれた。
     いま、この日記を書きながら、夏に鶴岡で巡りあったお香を焚いている。火を見つめたいときのための太いろうそくも二本灯して、これは、この気持ちは、長袖の季節の到来を祝う気持ちだ、と思う。
     日曜日は午前中から友達の田んぼへ行って、稲刈りの手伝いをした。私を「詩人さん」とか「サーヤ」と呼んでくれるご近所コミュニティの人たちとの、つかず離れずの、ちょうどいい付き合いが、数えてみるともう三年半になる。
     あいの風PROJECTの手拭いをほっかむりにしていったら、友達が撮ってくれた写真に写った私はいっぱしの農民の姿になっていて、年に一度しか来ない田んぼなのに、こそばゆかった。無理のない気持ちで、私が私のままで「おはようございまーす」と行って手伝える田んぼ=共同体が、自転車で行ける距離にあるということに、とても大きな扉がひらかれた感じがあり、うれしい。地域共同体のようなものを忌避して、無名の者として都会を生きてきた時間が長かったし、以前はその無名性を、これさえあればと思うほど心地良く感じていた。でもいま考えてみると、当時の私には会社という共同体があった(そしてその共同体にはやっぱりとても救われていた)。所属する会社がなくなり、都会の共同体から離れたいまは、なじめる地域共同体が近くにあることに、大きく助けられていると思う。それを同世代の愉快な人たちが切り盛りしてくれていることが、頼もしい。
     田んぼには黒い蛙がたくさん跳ねていて、小さな蜘蛛や名前のわからない虫がたくさんいて、そこを棲みかにしていた。去年の手伝いのときには気にもとめなかった、むしろ苦手で、その存在をできるだけないことにしようとしていた虫たちだった。どうしてかわからないけれど、今年は彼らのことが、苦手なものとしてじゃなく、生きている存在として目に入ってきた。稲を刈るとき、「ちょっとすいませんね」という言葉がほっぺのあたりにあった。こっちの都合でそっちの棲みかをだいぶ削っちゃってね。その写真を見た遠くの友達が「たんぼは最高な装置だよ」と言った。生きものが棲めて、お米が穫れて、循環する装置。ほんとうにそのとおりだと思った。
     さまざまな旅のなかで、山や里にいる虫、自然の豊かな場所で出会う虫はなぜ怖く感じないのだろうと思ったところから、ゆっくりゆっくり、何かが変わってきたと思う。最初にそう思ったのはいつだったか、もう覚えていないくらい、ゆっくりゆっくりのことだ。そうしてつい最近、ガザの人が「虫ケラのように」殺されている、という表現を本で読んだ。遠くの友達はちょうど『風の谷のナウシカ』の最終巻を読んでいて、「どんなにみじめな生命であっても生命はそれ自体の力によって生きています」という言葉が目に入ってきた。虫も生きてると思うこと、虫には虫の暮らしがあると思うことと、平和を願う気持ちの根っこは、太く繋がっていると思う。どれが最初に思ったことだかもうわからないけれど、そんなふうに身体ごと思考が縒り合わさってくる感覚を、私はもっと掘りさげてみたくなっている。

  • 2024.9.24

     

     チェロを手放したのは、平屋の旧居にいた頃だからもう五年以上前のこと。大学のサークルで、三年間チェロを弾いていた。卒業してからずっと、弾けないままのチェロは雪だるまみたいな白いハードケースに入って、居間の片隅からじっとこちらを見つめていた。たまにケースから出してみても、賃貸の部屋では思うように弾けなかった。溶けない雪だるまに忍びなくて、その頃、チェロを弾きたいと思っていたんですという人がちょうど現れたのをいいことに、その人に譲ってしまった。彼女はいまでもチェロを弾いているらしいから、やっぱり譲ることにしてよかったと思う。
     五年前には想像もつかなかったような新しい人間関係の中で生きている。旅も、旅先での出会いも、自然も、舞台芸術も、音楽も、まったく新しい顔を私に見せようとしている。五年前くらいまでのことがもう前世みたいに感じられる。ほとんど変わらない昔懐かしい姿でいてくれるのは、本棚に並んだ本と使い古した文房具くらいだ。
     五月の末、チェロよりふたまわりほども小さな弦楽器を手に入れた。前世ではなく現世にしっかり足を踏んばって生きるためのよすがのようなものがほしくて、初めは車を手に入れるつもりだったけれど、けっきょく楽器になった。高原で「茶摘み」を弾き、半島で「うみねこの唄」を弾いた。日曜日、親しい間柄の人たちばかりのお酒の席で、私がチェロを手放したことを知る音楽家が「楽器を手放すなんて考えられない」と私に言った。新しい楽器を手に入れたことを知るその音楽家は「始めた責任は取ってもらいます」とも言った。どうしよう。とんでもない秋が始まってしまった。

  • 2024.9.19

     

     夏のあいだじゅう、7月に旅行記を書いたほかは、いっさい日記を書かなかった。詩を書いて小説を書いて、Instagramばかり更新していた。いい夏だった、とても。そういう夏を経験するとは、思っていなかった夏だった。一昨日は中秋の名月で、昨日は魚座の満月で、きょうは段ボールごみの日で、朝7時前にごみ収集所に段ボールを担いでいったら、家の前の落ち葉を箒で掃いているおじさんと挨拶できた。朝食は乾麺のうどんを茹でて、ベランダの大葉と塩たまご入りの納豆うどん。ステップスツールを塗り直そうかなとふと思いたって、近所のホームセンターまで自転車で走っていった。蒸し暑かった。夏の尻尾が足掻いている。今週末には涼しくなる。
     ホームセンターで、リネンホワイトという色の水性ペンキと刷毛を買って、切れかけていた洗濯洗剤と歯ブラシも買って帰ってきた。音楽をかけてペンキ塗りをした。深緑だったスツールは、うっすらと青みがかった白いスツールになった。
     午後遅く、ひさしぶりにマクドナルドで仕事をしようと思って歩いていった。歩いている途中で大粒の雨が降りだし、マックの座席についた頃、本降りのスコールになった。雨を眺めながら、少し読書。しばらくすると西の空が晴れてきて、雨の向こうに夕焼けが見えた。原稿とにらめっこしていたら雨はいつのまにかあがって、18時にはもう真っ暗だった。新聞に寄稿するエッセイをあと一歩のところまで仕上げて、歌いながら帰ってきた。
     夜、定期案件をすこしして、ぺろの爪切り。なんだか散文的な日だった。こういう日もいい。無地の手拭いのような日だった。塩たまごのような日だった。

  • 2024.5.12

     

     舞台の歌唱シーンのチェックのため、南砂町の稽古スタジオへ。レプカ役の俳優・今井朋彦さんの歌は初めから完璧で、私は何もすることがなかった。だけど来られてよかった、この稽古場に来るのはたぶんこれが最後だし、演出家やミュージシャンやダンサーさんたちに会って挨拶できた。制作の方々と事務的な話をすこしして帰ってくる。
     駅工事の関係で、地下鉄東西線が東陽町止まりになる日だった。東陽町駅から南砂町駅まで、臨時の代行バスに乗った。帰るとき南砂町駅の仮設のバスロータリーの脇に並ぶと、向かい側に鉄オタの皆さんがずらりと並んでいて、面白い気持ちになった。バスが入ってくると、撮り鉄の皆さんは各自高級そうなカメラを構え、何かとても珍しい野鳥を撮るみたいに我々の乗るバスを撮った。撮り鉄さんはとかくマナーのことで叱られがちだけれど、人がわくわくしている表情を野鳥側の視点から眺めるのはいいものだなと思う。
     帰宅後、思い立って部屋の模様替えをした(縦置きで使っていた本棚を横置きに変更するという、わりとドラスティックなやつ)。昨日もいくつか近場の物件を見てまわったけれど、見れば見るほどいまの部屋がいまの自分に必要十分な要素を満たしているように思えてきて、それならこの部屋をできる限り育ててみようという気持ちになってしまった。新しい出会いばかり求めてないで、いまの私を作ってくれている人間関係をひとつひとつ大切にしようという気持ちと、それは、セットなのだった。

  • 2024.4.24

     

     満月。満月だけど、雨。
     火曜日、縁あって紹介してもらった物件を、海と山の町へ見に行った。ちいさな畑の奥に建つ、ちいさな平屋の小屋だった。畳の居室は明るくて、窓を全開にすると景色はひろびろとして向こうの丘が見え、いい風がぶわっと吹いてきた。大きな窓だ。うれしい窓だ。緑の見える窓だ。こんなのを求めていたんじゃないのか、私は? だけど即決できなかった。水回りや外壁の状態があまり良くなく(それはいまの家主さんが事前に何度も忠告してくれていたことだった、それでもと無理を言って見せてもらったのだった)、細い通路一本挟んだ隣家の近さや、絶対に出るというむかでやゲジゲジの話にも怯んでしまった。帰ってきたら、あんなにつまらないと思っていた築四年の部屋が、すごくいい部屋に思えてきた。じゃあ私はここを出るのをやめるのか? それでいいのか、私よ?
     こういうふうに悩むこと自体にたじろいでいる自分には、見覚えがある。新卒採用の就職先を探しながら、自分が何を仕事にしたいのかわからず、なぜ着るのかわからないスーツを毎日着て、もうよくわけがわからなくなっていた頃。私は長くアルバイトしていた出版社でせっかく出してもらった内定を断って、出版の仕事を目指すこと自体を放り出した。ともかくウェブ制作会社に入って、映画の仕事に出会うまでの二年間、「大きな人生の岐路で選ぶ道を間違えた」という感覚がずっとあった。私は二三歳で、自分がどこに向かっているのかよくわからず、二年はひどく長かった。自分にほとほとがっかりして、こんな後悔だけはもう二度と絶対にしないと誓った。物事の進みが順調すぎることに怖くなって投げだしてしまうことを、英語ではセルフ・サボタージュというらしい。その言葉を知ったとき、まさしく当時の私のことだと思った。

     緑の見える部屋への憧れは、能登で、珠洲焼きの陶芸作家さんのアトリエの、窓いっぱいに揺れる木々の梢を見たときから始まった。憧れは憧れとして、きっと間違っていない。でも、いまの私に必要な部屋の、いちばん大事な条件は、私の周りにいる素敵な人たちとともに、私自身と彼らのために、機嫌よく仕事できることだ。あの頃といちばん大きく違うのは、そういうふうに心から素敵だと思える仕事仲間が、たくさんいること。
     私は私の仕事をしよう、真面目に、誠実に、ひとつずつ。そのために最適な環境を、気長にじっくり考えながら探そう。なんだか長い長い遠回りをして、この結論へ戻ってきたような気がする。

    「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、つかの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたっとい。」(夏目漱石『草枕』より)

  • 2024.3.9

     

     朝10時、ホテルのすぐ近くまでサイカイちゃんが車で迎えに来てくれて、夕張郡の長沼までドライブした。サイカイちゃんが暮らしていた珠洲の家は、元日の震災で全壊してしまった。彼女がちょうど外出しているときに地震が起きた。とにかくいま、サイカイちゃんは北海道にいる。車に乗りこむなり、私は彼女を抱きしめずにはいられなかった。生きていてくれて、ほんとうによかった。
     車が出発した瞬間から、私たちは会っていなかったあいだに起きた出来事をどんどん話し、札幌の街を出た景色はだんだん広々としてきて、いつのまにかいちめんの雪で真っ白に覆われた平らな土地ばかりになった。いちめんの雪に挟まれた真っ直ぐな一本道を車は走り抜けていって、私たちは〈ハーベスト〉というスローフードのお店でランチにした。お店の傍にりんご畑があるらしく、ポークステーキにもサラダにもりんごのソースやりんごのドレッシングがかかって、生の黄色いりんごも付いていた。じゃがいものニョッキもおいしかった。〈丘の上珈琲〉でくるみのパイまで堪能して、サイカイちゃんは私を、午後3時ぴったりにコンサートホールまで送り届けてくれた。悩み多き日々にも、仕事のできる女子なのだ。
     ホールではコンサートのリハがもう始まっていて、私は持ってきた一眼レフで、聴きながらすこし写真を撮った。18時から本番。たくさんのお客様が入って、サイカイちゃんも来てくれた。始まるとあっというまだった。森山さんは何度もステージに上がって、各曲を解説した。私も一度だけ上がって、自分の話をすこしした。
     歌われる声は、歌う人の体を震わせて、空気を震わせて、聴く人を震わせる。何年も練習を重ねた「炊飯器」は、歌う人ひとりひとりに幾層も降り積もって、ふくよかに熟成されていた。圧巻だった。
     学生時代によく行った高田馬場の居酒屋を思いださせる大広間の宴会場で、打ち上げに混ぜてもらった。スピーチがだめな私は、お祝いがわりに「ウムカ」という詩をよんだ。
     物販用に持ってきた詩集20部、めでたく完売。

  • 2024.3.8

     

     羽田を午後に出る便で、新千歳空港へ。札幌の雪はふわふわ。今朝は東京にもうっすらと雪が積もっていたけれど、全然違う。ホテルにチェックインしてひと息ついて、もう何年ぶりかよく思い出せない札幌の街を、待ち合わせの駅まで歩いた。
     詩集『新しい住みか』の詩四篇を作曲家の森山至貴さんが合唱組曲として作曲してくださったのはもう五年前で、札幌の混声合唱団リトルスピリッツによって2020年3月にお披露目されるはずだったその組曲の初演は、「新型コロナウイルスまん延防止」のために無期限延期になっていた。その四年越しの本番が、明日なのだった。団の発起人でもある指揮者の北田悠馬さんに、初めてお会いできた。演奏会に出席してほしいと北田さんから最初にメールで連絡をもらったのも、もう四年半前。公民館で練習している団員さんたちのもとへ到着して、森山さんと私はそれぞれの立場からのコメントを述べた。みんなの集中力はすごかった。練習が終わると、夜一〇時になっていた。

  • 2024.2.15

     

     夕飯、大豆と塩もみキャベツとソーセージのスープ、ポテトサラダ、ザワークラウト。
     白ワインをあけて、ジャッキーカルパスを用意して、この部屋に住みはじめたときに買って以来ほとんど埃を被ったままのプロジェクターを引っぱりだして部屋を暗くして、アマプラで『テルマ&ルイーズ』を観た。明日から劇場で4Kリバイバル上映されるこの映画を、私は一度も観たことがなかった。女の自由についての——女の、不可能な自由についての映画。ミソジニストどもが(ミソジニスト「ども」という感じで映画は描いていた、どの男もどの男も)性=暴力の対象としてしか見ていない(そしてそれを自分でも内面化している)女の役割を棄てて、彼女たちはどんどん人間の顔になっていく。労働者のおっちゃんから奪ったキャップと盗んだカウボーイハットをそれぞれ被り、一瞬、人生の主導権を握りもする。それが当時のアメリカ社会でいかに不可能だったかを、彼女たちの逃避行すべてが犯罪になっていく様と、泣きたくなるような結末がみせつける。すこし前に見た『哀れなるものたち』が、とてもオプティミスティックな映画に思えてくる。すくなくともベラ・バクスターが摑み取った自由は、教育と仕事に裏打ちされていて、テルマとルイーズが摑んだような後戻りできない絶体絶命の自由じゃなかった。
     だけど、ああ、車ってものは、あんなふうに運転することもできるんだ。道を切り拓いて進むための、頼もしい道具にすることができるんだ。いいなあ……。最近またしばらく車に乗っていない。

  • 2024.2.5

     

     雪が、みぞれになったり、雨になったり、細雪になったり、ぼた雪になったりしながら、降っている。
     午後、縁あって初めて西洋占星術のセッションを受けた。オンラインで一時間。ここ数ヶ月感じてきた私のさまざまな直感はほぼほぼ星の動きと符号していて、ほっとするような、どうにもならなさに打ちのめされるような、無抵抗な気持ちになる。
     夕飯、中華風創作炊き込みご飯(ツナ、にんじん、ねぎ入り)、青ねぎと梅干しの味噌汁、白ワイン。

  • 2024.2.2

     

     午後、梅ヶ丘のカフェでK木さんと打ち合わせ。そのあとTOHOシネマズ新宿で『哀れなるものたち』 観る。ひとりの女が冒険する、ヨーロッパ近代文化史。歴史上のシーンをなぞりながら、だんだん自分の足で歩けるようになってゆくベラ・バクスターを、ときどき覗き穴から見るようなショットが挟まり、監視社会(byフーコー)の匂いが漂う。食欲も性欲も失せる映画なのに、美しさが担保されている。女性の解放史として考えると、うん、これでいいんだと思う。でも、ヨーロッパの現在地はここかあ、と思うと、あまり明るい気持ちにはなれない。救いはあんまりない。ベンヤミンやゴダールが考えてきたことの系譜を辿った映画だと思う。でも、フェミニズムってほんとにこれでいいのかなあ。男性の生きる姿の見苦しさ、息苦しさ、あほらしさの描かれかたとしては、『イニシェリン島の精霊』にも通じるところがある。人間(Man)が神になりかわって、観念的に構築してきた近代の、観念そのものの貧しさ(Poor Things)。ベラがどんなに賢くなっても、コミュニケーションは永遠に成立しない。
     夜、舞台『未来少年コナン』の情報解禁。いろんなひとから、お祝いの連絡をもらう。

  • 2024.1.28

     

     いつのまにか、寒さが本気をだしてきている。この四日ほど部屋に引き籠もって、原稿とじたばた格闘していた。その原稿に区切りがついて、清々しい気持ちで缶ビールをあけた。
     夕飯は高山なおみさんの自炊レシピで、ハッピー豆と大根と白菜とハーブソーセージの洋風スープ、半干し大根のハリハリ漬け。先日のユーバランスで大ファンになってしまった小田朋美さんの音楽をかけながら、ゆっくり作って食べる。
     今年のいろんな旅が始まるのを、いまはじっと待ちながら、日々の原稿をして、読むものを読んで、暮らしている。国産レモンは塩レモンになって発酵中。持っているニコンのカメラを今年はもっと使おうと思って、新しい帆布製のストラップと、光が淡く穏やかになるカメラフィルターを買った。旅の事始めは、来月の尾道になりそう。三月は札幌。パンデミックでずるずると延期になっていた合唱組曲『新しい住みか』の発表を、やっとやっと聴けるのが、とても楽しみ。

  • 2024.1.22

     

     昨日は渋谷で、葛西さんのイベント〈ユーバランス〉に出演する日だった。私たち、詩的な食卓の出番は開場してすぐの15時20分からで、30分の出番のあいだ、小さな空間に詰まった観客のかたがみんな集中して聴いてくださって、頼もしかった。最後に一曲だけ歌を歌った。朗読ではぜんぜん緊張しないのに、歌うのはとても緊張した。ゴンドウトモヒコさんのソロや、蓮沼執太くんのunpeopleや、音無史哉さんとカニササレアヤコさんの笙の世界から繋がってゆく小田朋美さんの歌声、それらの隙間をうろうろしているチェルフィッチュの俳優たち。ロビーの角でずっと楽曲制作している三浦康嗣さんの歌声がときどき響く。あっちこっちの開いた扉から、向こう側の音が漏れ聞こえて、ライブハウス全体が普通のライブではありえないことになっていて、自由で、雑多で、なかなかに体力は必要だったけれど、愉しい空間だった。イベントが終わると、私は日曜日の渋谷の人波を掻き分けてぴゅーっと帰ってきた。お夜食に梅干しひとつと、かけうどん(わかめ、とろろ昆布、ごま、干し柚子のせ)つくって食べる。
     きょうは午後、ユキさんが誘ってくれていたストレッチの会。疲れが溜まっているはずなのに、私はこの冬、まだ風邪を引いていない。思えばコロナにも一度も罹っていない。ここ四年くらい風邪を引いていない。偉い。夕飯はぶりかまのぶり大根、白ごはん、あおさ入り納豆、梅干し、ビール。スーパーの根野菜や国産レモンが安くて、嬉しくてたくさん買いこんできた。

  • 椿と、さんにょもんと、うみねこへ

     

    椿と、さんにょもんと、うみねこへ

    みんな、元気でいますか。
    1月16日火曜日、私たちは集まって
    「あいの風」を歌いました。
    珠洲のこと、能登のことを思って、歌いました。

    みんなを主人公にした「さいはての朗読劇」を
    ともに作ってきた阿部海太郎さん、長塚圭史さん、
    常盤貴子さん、北村有起哉さんが
    呼びかけ人となってくださいました。

    「あいの風」は、
    石川の民謡「臼摺り歌」のすばらしいメロディに
    新しい歌詞をつけて歌った、
    「さいはての朗読劇」のメインテーマです。
    よかったら、みんなで聴いてください。

    「あいの風」

    ハア ゴッキンサー ゴッキンサー
    ハア あいの風吹いた へちまのすきま
    いいひとあのひと つれてきたヨ

    ハア あいの風呼んだ 波間のいるか
    内浦 外浦 また会う日まで

    ハア すずの風鳴った ちりーんと鳴った
    帰ってきたきた さんにょもんさんヨ

    ハア すずの風舞った 夢まで舞った
    うつわもけものも 遊びましょうか
    ねむっていないで 遊びましょうか

    ハア ゴッキンサー ゴッキンサー

    https://www.youtube.com/watch?v=_C1iZwJnZvY
    再生されない場合はこちらから

    『あいの風』
    曲:石川県民謡(臼摺唄)
    詞:大崎清夏
    編曲:阿部海太郎
    <唄>(五十音順) 赤松絵利 赤間直幸 阿部海太郎 板倉タクマ 市井まゆ 伊東龍彦 伊藤豊 大崎清夏 岡野昌代 北村有起哉 鈴木泰人 常盤貴子 仲間由紀恵 長塚圭史 南条嘉毅 山添賀容子 吉村結子
    撮影・編集 中島祥太
    録音 伊藤豊
    撮影日 2024.1.16

    『あいの風』は、2022、23年にスズ・シアター・ミュージアム(珠洲市)で上演された「さいはての朗読劇」の劇中歌として唄われました。 出典元の民謡・臼摺唄の朗々たる旋律は、能登地方の豊かな風土と、そこに暮らす優しい人々によって大切に育まれてきました。 石川に残る民謡の中でもとりわけ美しいこの旋律に、東京から能登へ「あいの風」の想いを乗せて、「さいはての朗読劇」の関係者みんなで唄いました。
    *あいの風……春から夏にかけて吹く東風のこと

  • 2024.1.18

     

     きょうは木曜日。先週の土曜日は京都芸術大学の外苑前キャンパスで特別講義(という名の、主にアートライティングコースの学生さんたちを聞き手として想定した、みんな書くのって大変だよねっていうおはなし会)、日曜日は横浜市民ギャラリーで言葉と遊ぶワークショップだった。土曜の夜、キャンパスを出ると雪が束の間降っていた。日曜は、帰り道を歩きだしたところへ迎えのタクシーみたいなタイミングで来たバスに乗れた。会はどちらもたくさんのかたが集まってくださった。
     月曜日は午前10時から文化放送のラジオ番組の生放送で、芸人のアルコ&ピースの平子さんと、アナウンサーの坂口愛美さんと、30分お喋りした。ラジオに出るのが、出るたびに好きになる。声ってやっぱり楽しいなと思う。平子さんが私の詩を、どっぷり色をつけた声で読んでくださって、圧倒された。プロってすごい。出演後にかかった曲が折坂悠太の「坂道」で嬉しかった。でも9時半入りの予定だったのに、乗る電車を一本間違えて、20分も遅刻してしまった。冷や汗であった。ごめんなさい。
     ラジオ局を出たらとてもよく晴れていて、真昼で、そこは浜松町で、でもなんだか東京の街に繰りだす気持ちにはならなくて、すぐ電車に乗って家に帰った。翌日も夕方から大切な用事のために電車に乗って東京へ出てその晩はOさん宅に泊めていただき、水曜日は一緒に泊まったかよちゃんと武蔵小山の商店街のおいしい天ぷらの店でお昼にして、午後はまた外苑前に行って、来月にはギリシャに旅立つまりちゃん一家に会った。懐かしい再会がたてこんで、怒濤のような一週間だった。ふと我に返ると使いかけの野菜や常備菜が痛んでいて、それらを捨てた冷蔵庫はからっぽ。ちょっと奮発して買ったせっかくの日めくりカレンダーが、9日のまま止まっている。

  • 2024.1.9-10

     

     大学の後期火曜クラスの最終授業の日。帰ってきて郵便受けを見たら、年賀状の返事が2通来ていて、どちらも南伊豆からだった。夕飯を作って食べたところで、かのちゃんから連絡がきて、小1時間ほど電話で話した。地震以来初めて、かのちゃんの声を聞いて、私はとてもとてもほっとして、涙が出た。電話を切ったら、朗読劇仲間のグループラインに今度集まるための連絡が飛び交っていて、元気が出た。
     元日から一週間、たくさんの友達や仲間と文字のやりとりをしたけれど、誰とも声で会話していなかった。ちょっと危機を感じたから、8日にK磯さんに電話して、だらだら喋った。だらだら喋る相手がいてくれて、ほんとうに助かった。K磯さんはイギリス留学中にパンデミックが直撃して誰とも会えなくなり、その頃、何度か電話をくれたことがあった。どんな孤独をそのときK磯さんが味わっていたかなんて知る由もないけれど、あのときちゃんと私を頼ってくれてよかったなあと、電話をかけながらしみじみと私は思った。
     私たちは生きている。生きて、次に会う予定を立てたり、予定は立たずともその日を願ったりしながら、いろんな言葉で、つながりあっている。たぶんそれぞれに矜恃や指針があって、こういうときに頼りにしている言葉がある。その言葉自体は、きっと思想によって違いすぎて、まっすぐにわかりあえなかったり、反発を生んだりすることさえある(私は3.11のときどうしても「がんばろう」という言葉を使えなかった)。でもその言葉を言いたくなる気持ちの根っこにあるものは、きっとどんな思想や考えかたをもった人だって、誰でもそんなに違わないんじゃないか、とも薄々思う。
     この一週間、折坂悠太の『針の穴』という曲を散歩のお伴にしていた。「いま私が生きることは/針の穴を通すようなこと」「いま私が歌うことは/針の穴を通すようなこと」「稲光に笑ってたい/針の穴を通すようなことでも」。三が日にこの曲を知って初めて聴いたとき、号泣してしまった。こういう詩を力強く歌ってくれるひとがいること。この一週間、そのこと自体が私の栄養で、力だった。
     きっとこれからも何度だって山は崩れ、家は潰れ、ビルは倒れ、地面は裂け、愛した町や歩いた道がめちゃめちゃになるのを私は見るだろう。戦争だってきっといつまでもなくならないだろう。言葉に拘泥したままで、言葉に拘泥しているから、私が出会えたひとがいて、私に見えている世界がある、そのことに、私はきっちり絶望して、稲光に笑ってたい。泣いてしまうけど、泣いてしまっても。そんなことを考えながら、3.11の頃の自分が何を考えていたのかふと気になって、昔のブログを読み返した。そしたら、いちばん大事なことを、12年前の私が教えてくれた

  • 2024.1.6

     散歩を午前中にした。歩いていても海を目の前にしてもモヤモヤ考えてしまうことがあって、いつになったら私はこれを手放せるのだろうと思う。もっと動いて人に会ったりしたほうがよいことはわかっているけれど、いまは難しい。空気は暖かすぎるほど暖かい。帰ってきて、来週の仕事の準備をちょこちょこ進めるつもりだったけれど、何もする気が起きない。
     夕飯、小豆いり玄米ごはん、梅干し、菜の花とかぶとハムのオリーブオイル炒め、菜の花辛子和え、赤ワイン。
     デザートにクランチホワイトチョコレートを食べて、もうすこし赤ワインを飲む。
     昨日は最寄りの映画館でヴィム・ヴェンダースの「パーフェクト・デイズ」を観た。すんばらしい映画だった。本と、音楽と、ちょっとした趣味と、銭湯と、行きつけの飲み屋と、好きな人と、お弁当を食べる場所と、木漏れ日。それだけあれば、人間は自由に生きられる。ほんとうにそう思う。もっとこの孤独を愛せるはずだ、と去年のいつか思ったことを、また思った。そして、次に引っ越すときはやっぱり和室のある部屋がいいし、ベッドを手放してお布団にしてみたいと思った。それにしても、ヴェンダースは生まれかわったら公共の仕事がしたいんだろうか。写真の現像屋さんの配役に、にやにやが止まらなかった。

  • 2024.1.1

     大晦日はSちゃんとKちゃんがうちに来て、一緒に年越しそばを食べた。何度か雨が降って、生ぬるいような暖かさだった。真夜中、近所のお稲荷さんへ初詣にいった。湘南に暮らしてもう丸8年になるのに、近所の神社で初詣するのは今回が初めて。ひとりだと真夜中の散歩も億劫でなかなかできないので、私はうれしい。なんだか焦って、たくさんお願いごとを盛ってしまった。境内は地元の人たちで賑わっていて、破魔矢や熊手や、お汁粉やたこやきの出店も出ていた。Sちゃんたちは甘酒を買って、帰り道を飲みながら歩いた。私はすこしだけお相伴にあずかった。

     午後、初日の入りでも見るかと思って散歩に出た。海辺で、少し離れたところから「震度六だって」という若者の声が聞こえて、とくに気にも留めずに帰ってきてSNSを見たら、珠洲が大変なことになっていた。こういうとき、あまりむやみに安否確認の連絡をしないほうがいいと分かっていたけれど、どうしてもかのちゃんにだけは連絡せずにいられなかった。小学校に避難して無事との連絡をもらって、ほーっと息をついた。
     だめだ、まず自分が落ち着くべきだと思って、お雑煮とほうれん草の酢味噌和えを作って食べた。いろんなところから、新年の挨拶もすっとばしてお互いを気遣うやりとりが飛んできて、ありがたかった。ぺろを揉みながらその連絡をやりとりしているうちに、ゆっくり気持ちが静まってきた。だけど避難しているひとたちは、静まるどころではないと思う。
     元日は私の母方の祖父の命日で、まだ祖母の家でお正月を迎えていた頃、よくそのことを親戚どうしでネタにしたものだった。「ミツオさんはお祭り男だったからね」「みんなが集まる日じゃなきゃ嫌だったんだね」と。2024年のきょうをそんなふうに笑ってネタにできる日が来ることを、いま考えるのは時期尚早だと思いつつも、考える。そうやって混線した回路から、実際きょうがミツオさんの命日であることを思いだしているわけで、やるな、ミツオ、と思う。

  • 2023.12.27

     午前中、郵便局と花屋へ行く。郵便局では年賀切手。花屋では、正月飾りの雰囲気が出そうなオージープランツと、ムレスズメの小さな株と、ろうそくをひとつ買った。そうです、ムレスズメは名前にひかれて買ったんですよ。そのうち花が咲くかなあ。帰ってきて、昨晩書いた年賀状に切手を貼った。切手を貼るという行為が好きだ。切手を貼る詩を私は書いた方がいい。
     昨日、舞台関係の大きな仕事がひと区切りついたので、やや景気がいい。午後、原稿をひとつ仕上げて送り、晩ごはんはピェンロー鍋を作ることにした。買いものに出かけるついでに年賀状を出して、スタバに行ってすこし読書。そのあいだに新しい依頼のメールが来ていて、ああ、私は来年もこんなふうに仕事していくのかな……。そうできたらいい。たぶん私は、私にとって最もちょうどいい仕事のしかたを、これからもひたすら発掘し死守して生きていく。とりあえずいまは、それだけでもいい。でも、満ち足りて孤独なだけではなくて、繋がって平和にもなりたい。そのための準備を、来年はできたらいいなと思う。まずは年明けすぐにやってくる怒濤の忙しさを乗り越えてから……。
     イスラエルがガザをめちゃくちゃにしていることに対して、出資している企業の一覧のなかにスタバが入っている。きょう私はそのことが気になりながらも平然とスタバに行ったけど、それとはまったく別の、もうすこし長期的かつ個人的な文脈において、コーヒーを少し減らしてもっと紅茶と緑茶と抹茶を飲もうかなという気持ちになっている。茶筅を入手しようしようと思いながら、まだ入手できずにいる。
     ピェンロー鍋は、戻した干し椎茸の出汁に水を足して、白菜と豚をいれて、戻した春雨をいれて、そこにごま油だけを垂らして、ぐつぐつしていく鍋。余っていたきくらげも入れた。お椀に一味唐辛子と塩をいれて、そこによそって食べる。めちゃくちゃうまい。私はピェンロー鍋をもっと頻繁に作ったほうがいい。