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 大学の後期火曜クラスの最終授業の日。帰ってきて郵便受けを見たら、年賀状の返事が2通来ていて、どちらも南伊豆からだった。夕飯を作って食べたところで、かのちゃんから連絡がきて、小1時間ほど電話で話した。地震以来初めて、かのちゃんの声を聞いて、私はとてもとてもほっとして、涙が出た。電話を切ったら、朗読劇仲間のグループラインに今度集まるための連絡が飛び交っていて、元気が出た。
 元日から一週間、たくさんの友達や仲間と文字のやりとりをしたけれど、誰とも声で会話していなかった。ちょっと危機を感じたから、8日にK磯さんに電話して、だらだら喋った。だらだら喋る相手がいてくれて、ほんとうに助かった。K磯さんはイギリス留学中にパンデミックが直撃して誰とも会えなくなり、その頃、何度か電話をくれたことがあった。どんな孤独をそのときK磯さんが味わっていたかなんて知る由もないけれど、あのときちゃんと私を頼ってくれてよかったなあと、電話をかけながらしみじみと私は思った。
 私たちは生きている。生きて、次に会う予定を立てたり、予定は立たずともその日を願ったりしながら、いろんな言葉で、つながりあっている。たぶんそれぞれに矜恃や指針があって、こういうときに頼りにしている言葉がある。その言葉自体は、きっと思想によって違いすぎて、まっすぐにわかりあえなかったり、反発を生んだりすることさえある(私は3.11のときどうしても「がんばろう」という言葉を使えなかった)。でもその言葉を言いたくなる気持ちの根っこにあるものは、きっとどんな思想や考えかたをもった人だって、誰でもそんなに違わないんじゃないか、とも薄々思う。
 この一週間、折坂悠太の『針の穴』という曲を散歩のお伴にしていた。「いま私が生きることは/針の穴を通すようなこと」「いま私が歌うことは/針の穴を通すようなこと」「稲光に笑ってたい/針の穴を通すようなことでも」。三が日にこの曲を知って初めて聴いたとき、号泣してしまった。こういう詩を力強く歌ってくれるひとがいること。この一週間、そのこと自体が私の栄養で、力だった。
 きっとこれからも何度だって山は崩れ、家は潰れ、ビルは倒れ、地面は裂け、愛した町や歩いた道がめちゃめちゃになるのを私は見るだろう。戦争だってきっといつまでもなくならないだろう。言葉に拘泥したままで、言葉に拘泥しているから、私が出会えたひとがいて、私に見えている世界がある、そのことに、私はきっちり絶望して、稲光に笑ってたい。泣いてしまうけど、泣いてしまっても。そんなことを考えながら、3.11の頃の自分が何を考えていたのかふと気になって、昔のブログを読み返した。そしたら、いちばん大事なことを、12年前の私が教えてくれた