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 『新しい住みか』という詩集ができたとき、それは2018年で、私は湘南に暮らしはじめて2年目だった。その湘南の家はもともと、当時私のパートナーだったひとの叔父さんが20年近くも暮らしていた家だった。叔父さんが亡くなって、厖大な蔵書の整理も兼ねるという名目で、私たちは東京の2Kの部屋からその家に引っ越した。
 ほんとうに素敵な家だった。平屋で、玄関間にはりっぱな神棚があり、趣味人だった叔父さんの工具や画材で溢れた土間の作業場や、あとから増築した書庫がついていて(雨漏りしてたけど)、縁側の床はすべすべの無垢材で、もうだいぶ老木になった桜の生えた大きな庭があって、私は縁側に座って庭を眺めて涼むのが大好きだった。屋根の上では、近所の猫やからすがよく日なたぼっこしていた。冬には、隣の家の柑橘の実がたわわに実るのがブロック塀越しに見えた。欄間の細工や、窓に使われた結霜硝子、雪見障子、柱の一本一本、どれもが丁寧に作られて、かわいかった。
 その家に住んだから、猫を飼ってもいいかなと思えた。庭には蝶やとかげがたくさんいて、ぺろは飽きなかった。庭の真ん中ではセンダンの木がぐんぐん育って、木漏れ日が心地よかった。建築業の友達が大工のお父さまを連れて、傾いた廊下の床を直しに来てくれたとき、お父さまが、この家のいちばん古い部分はもう築百年ほどだろうと言った。居間の畳を剥がしてみると、すぐ下は海岸と同じ砂の地面で、昔の工法だから、大黒柱は礎石の上に置いてあるだけだった。かびや隙間風やねずみの糞に悩まされたし、寒い時期になると私は喘息を発症した。それでもその家が大好きだった。
 でも、2019年にはもう、私たちはその家を出なければならなかった。地主さんが、”老朽化”したその家を取り壊してアパートを建てたいからということだった。その地区一帯で、そんなことが流行っていた。古くからある庭付きの、ゆったりした造りの家が、どんどんなくなっていっていた。仕方なく近所の物件を探して、猫が飼い続けられる、狭くても庭のあるテラスハウスを(ちょっと家賃は予算オーバーしていたけど)見つけて借りた。一年も経たないうちに、旧居(と私たちは呼んでいた)は跡形もなくなり、桜の木は伐られ、小さな生態系だった美しい庭は消失して、その土地には、どこにでもあるような軽鉄骨のアパートが建った。私は悲しすぎて、それからろくろく旧居の前の道を通れなかった。
 いまはもう、地主さんを責めようとは思わない。土地や家を持つ人には、持つ人なりの考えや悩みがあるのだと思う。私はまだ自分の家を持ったことがない。コロナ禍が始まった頃、一度だけ、本気でマンションの一室を買ってみようとしたことがあったけれど、ぜんぜんローンが下りなくて無理だった。でもいま考えてみると、あのときマンションを買わなくてよかったと思う。いま私が暮らしたいと思っている理想の家と、あのマンションの部屋とは、すっかりかけ離れてしまった。暮らしたい場所のイメージは変わっていくから、私には借りて住むのが性にあっているのかもしれないな、と、いまは思う。
 住みたい町で、ほんとうに居心地のいい、住みたい家に暮らし続けること。それは、ただでさえ難しい、奇跡のようなことだ。地震で家を失って、いま、住みたい場所とは違う場所での生活を強いられている友達のことを、考える。いまのいま、途方に暮れながら、新しい住みかを探している彼女たちのこと。考えていると、旧居の思い出が頭をよぎる。あの無垢材も、結霜硝子も、雪見障子も、私にはとうてい救ってあげられなかったこと。それでも私には、あの家を出る日まで、数か月の猶予があったこと。
 『新しい住みか』を作ったときには、どうして私たち人間は、もっと軽やかに、ほかの動物みたいに、移動しながら暮らせないんだろうと思っていた。でも、動物たちだって、自分で家を作る。その家を、精一杯、住み心地よくしようとする。私だっていま、そんな「家」を自分の手でこれからどう作っていこうか、考えている。そういう「家」が壊れてなくなることが、悲しくないわけがない。ほかの動物だって、悲しくないわけがない。

 昼、昨日の余りの中華風炊き込みごはんと、わかめの味噌汁。
 夕飯、買ってきたアジフライ、かいわれとにんじんの塩もみ、缶ビール、八海山。