萩原朔太郎賞受賞記念講演
「暗闇に詩が宿るとき」原稿全文
改めて、きょうはこのような機会をいただき、ありがとうございます。
「詩が好きといっても——/詩とはいったい何だろう/その問いに対して出されてきた/答えはもう一つや二つではない/でもわたしは分からないし、分からないということにつかまっている/分からないということが命綱であるかのように」。
これは、ヴィスワヴァ・シンボルスカという詩人の書いた「詩の好きな人もいる」という詩の一節です。私自身、詩のようなものを初めて書いてみたときから、長い月日が経ち、詩とは何かという問いに、自分でもさまざまな答えを出してみながら生きてきたけれど、どんな答えも、実際に自分が詩に触れたときの感情や感覚をじゅうぶんに説明できるものではありませんでした。
詩というと、リズムのある、改行された、言葉による作品を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、私たちは、空の雲や、花の色や、通りすがりの誰かの呟きにも、詩を感じて、ときには涙を流したりすることがあります。それはとても個人的な心の動きで、もし誰かが隣りで手を握ってくれていたとしても、それが血の繋がりのある家族だったとしても、全く同じ心を共有することはできません。
この世界から詩を受け取ることは、とても孤独な作業です。それでも、受け取ってしまったものをなかったことにできなくて、私は詩を書き続けてきました。改行することや、言葉にリズムを与えることで、世界を詩というかたちの言葉に翻訳する方法を、たくさんの先人が教えてくれました。
詩を書き始めた頃の私にとって、作品を人に読んでもらうことは、怖ろしいと同時にわくわくすることでした。不思議なことに、恥ずかしいと思ったことはほとんどありませんでしたが、読んでくれたクラスの友人や教師の反応に満足できたこともありませんでした。私は、たとえば自分が萩原朔太郎の「猫」や「白い月」や「さびしい人格」を読んで、文字が皮膚の細胞に溶けていくような感覚を味わったのと同じように、彼らにも感じてほしいと思い、それはけっきょく不可能なことなのだと、自分の作品を読んでもらうたびにがっかりしたことを憶えています。
「詩の好きな人もいる」には、こんな一節も出てきます。「みんなの中の大多数ではなく、むしろ少数派/むりやりそれを押しつける学校や/それを書くご当人は勘定に入れなければ/そういう人はたぶん、千人に二人くらい」。
たぶん、きょうこの会場には、もうすこし多くの割合で、詩の好きな人がいるんじゃないかと思います。でもみなさんも、それが少数派であることは、感じていらっしゃるんじゃないかと思います。あるひとつの詩を読んで、自分がとても大きく心を動かされたとしても、その詩を容易にひとに薦めることはできません。薦められた相手が、その詩を自分と同じように受け取る可能性はとても低いし、反対に、意味がわからないと思われて拒絶反応を示される可能性はとても高いからです。
大学の文学部に入って、それまで自分の読んできたものの範囲の狭さ、書いてきたものの稚拙さを思い知ることになりました。周りは、みるべき映画や、よむべき文学や、美術や、舞台芸術や、もっと雑多な都市生活の文化を教えてくれる人だらけになりました。東京は、私の知らないこと、分からないことを与え続けてくれる街でした。そして、詩を受け取ってしまった者に埋めこまれた孤独を抱えてうろうろしている人に、次から次へと出会える街でした。
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これまでに刊行された私の五つの詩集はどれも、その原稿を読んで、「これは詩だよ」と言ってくれた人のおかげで本になりました。自分ひとりでは、とうていそれが詩だと信じきることはできなかったのです。でもそうして本ができてみると、私の詩集とともに孤独になってくれた人がどこからともなく現れて、「あなたの詩は素敵だ」と言ってくれるようになりました。「ここに書かれているのは私のことだ」と言ってくれた人もいました。そのような出会いは私にとって、毎回、純粋な奇跡でした。
大きな賞を受賞すれば、私の本の帯には必ず、その賞の名前が印刷されることになります。そうすれば、詩のようなよく分からないものでも、賞という社会的な認め印をよすがにして手に取ってくださる方が、多少はいるからなのだと思います。私の作品について、ほとんど何の感想も述べたことのない私の母も、この授賞式には来たがっていたのですが、私はできるだけ母を傷つけないように、その申し出を断ってしまいました。私が母にいちばん観てほしかった舞台作品を、彼女が仕事の忙しさを言い訳にして観てくれなかったことを、いまでも恨んでいるからです。
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『暗闇に手をひらく』という詩集の表題作は、二〇二二年にひらかれた、同じタイトルのコンサートのために生まれました。そのコンサートの企画者である作曲家の阿部海太郎さんとは、これまでさまざまな形で、作品作りをともにしてきました。萩原朔太郎も、中原中也も、谷川俊太郎も、音楽への愛と憧れをさまざまに語り続けた詩人でしたが、私はその最後尾にいます。信頼のおける音楽家との仕事は、やりとげるたびに、歓喜と恍惚と新しい風景を与えてくれるものでした。
劇作家の長塚圭史さんとは、石川県珠洲市で、一緒に朗読劇を作りました。その制作中のある晩、居酒屋でお酒を飲みながら、長塚さんは「詩人なんてひどい商売だ」と私に言いました。それがどんなに嬉しい言葉だったか、皆さんに想像していただけるでしょうか。酔っぱらっていたのであまり正確には覚えていないけれど、私は「劇作家だって似たようなものじゃないですか」と答えたような気がします。
紀伊國屋書店新宿本店の書店員の梅﨑実奈さんは「受賞前から(大崎さんを/この詩集を)推していたことを声を大にして言いたい」と言ってくれました。その言葉通り、詩集が出た直後に梅﨑さんが書いて掲示してくれた長文の推薦ポップは、いままで受け取ったことのないほどの愛に溢れたラブレターでした。梅﨑さんが、私の詩集が売れるからではなく、それを売りたいから売るんだと思ってくれたこと、自分が詩を受け取ってしまった孤独に、書店員として最大の責任と誠意をもって応えようとしてくれたことは、私にとって、本当に心強いことでした。
いまの私の夫も、私たちが知りあう過程の中で、とても個人的に私の作品から詩を受け取ってくれました。それはやはり、彼があの孤独を知っていたから、たったひとりきりで、夏の星空や、明け方に鳴く鳥の声や、真冬に家を取り囲むいちめんの雪が沈黙のうちに語る詩を、受け取ってきたひとだったからなのだと思います。このような人たちと同時代に生きていることは、私にとって、意味のわからないほどの幸運としか言いようがありません。
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詩を書こうとするとき、私の中にはいつも、いつかテレビのドキュメンタリー番組で観た、ひと組の親子の姿があります。それは、東日本大震災で被災し、家と家族をうしなった親子の姿です。あの親子が、明日も朗らかに生きようと思えるようなものを書きたい、書かなければならない、というのが、いつのまにか私の詩作の指針になりました。それからきょうまで、みなさんもご存知の通り、たくさんの災害がありました。地震の揺れがおさまっても、水害の水が引いても、それらによって壊された暮らしは、戻ってきません。それでも私たちは生きるしかなく、なんとか次の暮らしかたを探しださなければなりません。詩というものが、そういう人間の暮らしにどんなふうに役立つのか、私には分からないし、分からないということにつかまっています。
詩は、家計を助けたり、家を暖めたりするために書かれるわけではないし、お腹の足しにもなりません。それでも私たちには、どうしても詩が必要なときがあります。その詩があったから、その日を生き延びることができた、という経験をすることがあります。ならば私はせめて、暮らしに寄り添う言葉を作る係でありたいと思いました。
二〇一一年、現代詩手帖の震災特集のために「炊飯器」という詩を書いたとき、編集部から「今回の震災について感じたこと」をコメントとして付記してほしいという依頼がありました。そのときにこんなことを書きました。「言葉は人間がさいしょに被る震災です。言葉は人間が毎日受けつづけている暴力です。被災し、暴力をふるわれて、黙っていることができずに、赤んぼうは言葉を喋り始めます。誰かの言葉はそのまま、誰かの被災のかたちです。何から何までが「今回の震災」なのか、わたしはずっと、わからずにいます。」
この考えは、いまも変わっていません。私たちはみんな、別々の生を生きています。大きな自然災害や、戦争だけが、人間を傷つけるわけではありません。大切な人を事故や病気でうしなったり、国籍や性別のために暴力を受けたり、小さなことがきっかけで友達や同僚とうまくいかなくなったりすることが、どれほど辛いことかを、他者が完全に理解することはできません。私たちはみんな、ひとりひとりが、それぞれの暗闇の中に生きています。
詩は、誰かの痛みを直接癒やしたり、治したりするために書かれるわけではないけれど、その暗闇の中で、そっと一緒にいることができます。街の中にある小さな書店がともす明かりが、そこに立ち寄らない日にも、誰かの心のよりどころになるように、一篇の詩が、小さな明かりのように機能することがあります。なぜそんなことが可能なのか、やっぱり私には分かりません。
でもたぶん、詩人というのは、いつも、あたりまえに、普通にそこにあるとみんなが思っているもの、たとえば気持ちよく晴れた秋の日のようなもの、たとえば平和のようなものを、まったく普通ではないもの、奇跡のようなもの、明日にはなくなってしまうかもしれないものとして受け取る人間のことなのだと思います。暗闇も、孤独も、痛みも、詩人は、全力で抱きしめようとします。
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「暗闇に詩が宿るとき」という題でお話ししてきましたが、私は暗闇についても、詩についても、じゅうぶんに知っているとは言えないし、どんなときに詩が暗闇に宿るのかも、よくわかっていません。確かなことは、これまでに発表してきた詩が、一篇ごとに私の優しい暗闇をつくり、そこに住まわせ、それを読んだ見知らぬ誰かの力も借りながら、その暗闇を愛おしむ方法を教えてくれたということです。その見知らぬすべての誰かに、この場を借りて、感謝を伝えたいと思います。
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いつも、こんなふうに人前に立って、それ以上、何を話せばいいかわからなくなるとき、私は詩の朗読をしてやりすごしてきました。今日も、最後に「みや子の話」という詩を読んで、この講演をおわりにしたいと思います。ご静聴いただき、ありがとうございました。
〈講演原稿 以上〉
2025年11月1日、前橋文学館にて開催
左肩に馬の毛を一房垂らして自分は母であると宣伝する女を、尊いとは思えない——これには貴兄も同意してくださるでしょう。
(中略)
〈教育のある男性たち〉は、他人とは異なる衣装をまとい、自分の名前の前後に称号やら肩書きやらを追加して、自分は他人より生まれがよい、他人より頭がよいなどと強調したがります。この行為が競争心と嫉妬心を煽り、そうして戦争に向かう気質が養われる——(中略)とわたしたちが意見を述べれば、戦争に向かう気分を抑えるのに間接的ではあれ何事かをなしたことになるはずです。さらにうれしいことに、意見を述べる以上のことも現在のわたしたちにはできます。わたしにはそんな格づけはいっさいいりません、そんな制服はいっさいいりません——と、きっぱり拒むことができます。これは目下の問題、つまりどうすれば戦争を阻止できるかという問題への、ささやかではあれ確実な貢献となるでしょう。そしてこれは、異なる訓練を受け、異なる伝統のもとにあるわたしたちだからこそ、あなたがたよりも容易に実行できるのです。
——ヴァージニア・ウルフ著、片山亜紀訳『三ギニー 戦争を阻止するために』より