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2007年7月から使い続けてきたTwitterを、ついにやめた。最近相互フォローになったばかりのひともいて、すこし心苦しいような気もしたけれど、やっぱりやめることにした。ツイートのアーカイブデータはダウンロードして、過去のDMは全部読み返して、思い出深いものはスクリーンショットをとった。最後の日、私のフォロワーさんの数は2,553人、フォローさんの数は488人だった。
まる16年、Twitterを使っていたことになる。最初は、勤めていた宣伝会社がウェブ広告にも力をいれていたから、とにかく新しいSNSはなんでも使ってみようという気持ちで登録したアカウントだった。3.11の震災のとき、電話回線が壊滅的ななかさくさく動くTwitterが頼もしくて、それからライフラインのひとつになった。Twitter上で知り合えたひともいたし、自分のツイートがちょっとばずると、やっぱりそれなりに嬉しかった。
Twitterには、よくもわるくも言葉というものに拘泥しているひとがいて、優しすぎるひとも、こわいひとも、過激なひとも、左のひとも右のひともいて、ときどきほんとうにげっそりしてしまうような言い合いや糾弾や弁解もあったけれど、それでもひとつのトピックをみんながそれぞれ考えて意見をのべたり、ふーっとためいきをつくようにその日の体調を置いていったり、そういう場にいるのはわるくなかった。
『踊る自由』という詩集を出したとき、それまでの自分には信じられないほどの反響をもらった。出版社が刊行を発表したツイートに300を越えるいいねがついて、すごくうれしかった。たくさんのひとが私の本を読み、感想を呟いてくれるようになった。でもその頃から、私のツイートは宣伝ばかりになった。Twitterは私にとっていつのまにか、始めた頃とは全然ちがう居場所になった。
ドナルド・トランプが出禁になった。マスク派とノーマスク派がお互いをなじりだした。イーロン・マスクがTwitter社を買収することになったとき、ああ、もうやめてもいいかなと思った(イーロン・マスクの顔が好きじゃなかったから)。自分の作品や活動の宣伝のためという建前でなんとか切り盛りしてきたけれど、もうそれを宣伝するのは、私の仕事じゃないのかもしれないな、とも思った。それをやってくれるひとが、さいわいなことに、いまの私のまわりにはいて、私には別の仕事があり、そっちに集中してみてもいいのかもしれない。そんなことを、去年くらいからぼんやり思い始めて、携帯やタブレットからアプリを削除して、いつやめてもいい状態にしてあった。
昨日、前期さいごの授業があって、大学の講師としての仕事がひと区切りついた。きょうからは夏休み。でも、執筆という宿題の山は、うずたかく私の目の前に積みあがっている。そういう夏休みの初日に、私はTwitterのアカウントを消すことにした。Facebookのアカウントも停止している私のSNSは、これでinstagramだけ。さあ、どんな夏休みが始まるかな。