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「私は思い描く」

私は思い描く、南へ向かう列車を。
私は思い描く、あなたの今朝のあくびを。
私は思い描く、夏のシーツを渡るテントウムシの速度を。
私は思い描く、清掃業者が鍵を閉めて出ていった部屋の隅に、ゆっくりと舞い落ちる埃を。
海に降る雨を思い描く。
テラス席の光を思い描く。
真夜中の図書館を思い描く。
私は思い描く、疲れて沖に浮かぶかもめを。
私は思い描く、空いっぱいに浮かぶ気球を。
私は思い描く、夕立をやりすごす雀たちを。
私は思い描く、いますぐ会って抱きしめたいひとを。
離陸する飛行機を思い描く。
真昼の空の星座を思い描く。
群島をむすぶ船の航路を思い描く。
私は思い描く、映画館の暗闇で流れる見知らぬ誰かの涙を。
 自分だって同じ涙を流しているのに、彼と知りあわないまま別れる贅沢を。
私は思い描く、古いビルの屋上で誰かが爪弾くギターの音と
 暖かい満月と、手に手に強いお酒を持って語らうひとびとを。
私は思い描く、ひとびとが帰っていき、ラブソングの転調のように
 夜風が冷たくなる瞬間を。
知り合いに偶然出くわす都会のある日を思い描く。
仕事終わりにそのまま飲みにいっちゃう夕方を思い描く。
着る機会を待っている、着ると嬉しくなる服たちの出番を思い描く。
私は思い描く、萎れかけの花の、匂いたつ肢体を。
私は思い描く、庭の草陰にねむる、生きものたちの寝息を。
私は思い描く、洗いたての濡れた髪、毛先がゆっくり乾く匂いを。
私は思い描く、まだ訪れたことのない町をーーたとえばダブリンを。
私は思い描く、打ち捨てられ、緑の苔に包まれてゆく銃と戦車を。
隣の部屋に住む人の、睡眠時間を思い描く。
夜のカフェがともす灯りの、確かな明るさを思い描く。
夜明けの猫たちを思い描く。
死者の国を思い描く。
コップ一杯のきれいな水を思い描く。
私は思い描く、人類最初の戦争が始まった日の前の日を。
私は思い描く、影になって消えたあなたの始めようとしていた一日を。
私は思い描く、地上に爆弾の落ちることのないある日を。
私は思い描く、その日の静けさを。
私は思い描く、世界中の詩人たちの現在地を。
私は思い描く、閉館後のショッピングモールを。
私は思い描く、世界中の本屋さんの今日の売れ行きを。
私は思い描く、世界中の劇場の舞台袖の歴史を。
私は思い描く、建物の壁に最初のひび割れが刻まれる瞬間を。
私は思い描く、夜のどこかで痙攣しているあなたの瞼を。
氷河期を思い描く。
橋を思い描く。
山をひとつ、思い描く。
私は思い描く、山頂からみえる景色を。
私は思い描く、青く澄みわたる湖の静寂を。
私は思い描く、雪渓を吹き上げてくる冷たい風を。
私は思い描く、陽に照らされて消える朝露の最後のひと雫を。
私は思い描く、けさのレタスを収穫しにゆくトラックの立てる走行音を。
私は思い描く、私の靴底が運んだ種からまだ名前のない草花の芽吹くのを。
体内を巡る血の流れを思い描く。
理想的な作業机を思い描く。
夏の美術館の静寂を思い描く。
いまのいま、どこかで一杯のコーヒーのために沸騰しているお湯の総量を思い描く。
私は思い描く、人々の口元が顕わになる日を。その日に選ぶ口紅の色、その日最初に話しかける相手を。
私は思い描く、もう味わうことのできない味を。あの店でたのしく働いていた人々を。
私は思い描く、逃げのびたあなたの心を。湖を覆う霧が晴れてゆくように、それが静かに晴れてゆくのを。
私は思い描く、ほんとうの議論を。半導体のように通電する言葉を。
私は思い描く、ひとりぼっちで踊る歓びを、それから大音量を浴びて誰かとめちゃくちゃに踊る歓びを。
夏祭りを思い描く。
打ち上げ花火を思い描く。
詩を一篇、思い描く。
私は思い描く、人類の誕生以前から繰り返されてきた夏至の日の日没を。
私は思い描く、落下する雨粒が一生のうちに目撃する景色のぜんぶを。
私は思い描く、いつか私が出会い、もう忘れてしまった人の暮らしを。
私は思い描く、いつかあなたが出会い、まだ忘れられない人の笑った顔を。
私は思い描く、きのう生まれたものの瞳に、いま映っている光景を。
私は思い描く、あしたの天気を。