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もう何年も、政治報道を見るたびに「これ以上ことばを、日本語を、蹂躙しないでくれ」という気分に侵される状態が続いている。きょうは朝日新聞を読んでいた。矛盾ということばが何度もつかわれている記事だった。その記事の書き手の意見はこうだった。「首相の説明は矛盾をはらんでいるようにも聞こえる」。ふたつの発言の間にあるあきらかな矛盾にたいして、なぜ新聞が「首相の説明は矛盾をはらんでいるようにも聞こえる」などという婉曲的な書き方をしなければならないのか。矛盾は矛盾だ。ことばは、報道のことばは、正確に使われるべきだ。ことばを侮辱しないでほしい。政治家にも、報道にも、もうこれ以上ことばを貶めるのをやめてほしい。私は私の愛していることばが踏みにじられるのが悔しい。

劇団地点の『君の庭』という演劇を観た。地点の評判をまえから聞いていたので、観られるのが嬉しかった。ひさびさに劇場空間に身を置けたことも嬉しかった。演劇の主題は、天皇制についてということだった。

シンプルな身ぶりが何度も繰り返される演劇だった。観ているうちに、私は苛立ちを感じた。挑発されていると感じた。見終える頃には、ずっしり悲しくなってしまった。ことばが弄ばれていると感じた。おそらくは「御言葉」の権威を引きずりおろすために、ふざけたようなイントネーションや英語や偽方言のようなものがもちいられ、そのどれもが、目的ではいっさいなく、権威への挑戦のための手段に成り果てていると感じた。方言が手段に成り果てるという事態は、この国の方言のおかれてきたポジションを考えるだに、あまりにひどい。時事用語も法もアイヒマンも安倍晋三の物真似も、手段に成り果てていた(中盤の古事記のくだりだけは、ほんのすこし愉快な気持ちになった)。脚本家はこの演出をどのように観るのだろうと思った。私が悲しくなったように悲しくなることはないのだろうかと思った。

私は自分を保守的な人間だと思う。日本語を愛している私をこんなにも悲しくさせることがもし演出の狙いどおりだったとすれば、それは嫌になるほど成功していたと言わなければならない。「御言葉」を批判するためにどのような手段がほかにあるのか、と言う人もいるかもしれない。私はただ、手段としてのことばにはもううんざりしているのだと思う。劇場でくらい、弄ばれることばでなく、深いところへ潜っていくような、豊かなことば遊びが観たい。ことばの魂がすくわれるのを観るために、客席に座りたい。