昨日仕上げるはずだった原稿がまだ終わらない。夏だか秋だかにひいたおみくじに「旅 − 出すぎるな」と書いてあったのに(どこでひいたんだろう、あれは?)、どうしても書いてみたくなってしまった原稿の取材のためにベネチアまで行き(5年ぶりの国際線!)、それは3泊6日という途方もない旅程で、じさぼけからもまだ完全に復帰しないまま、明日はまた新幹線に乗る。10月末からずっとミマルさんに預けっぱなしのぺろがいよいよ恋しい。
今回の人生における自分の仕事をやりきりたい気持ちと、いま受け持てるキャパシティのバランスがうまくとれていない。去年の半ばくらいからその傾向はあって、だから今年の前半はすこし思いきって仕事を減らしてみたりしたのだけれど、減らしたところにすうっとまた新しい依頼が舞いこんで、それがまた「ぜひやらせてください、絶対にやらせてください、それは、私が!」としか返事のしようのない案件だったりして、結局は忙しく駆け抜けてしまった。
幸運なのだと思う。頼もしい仕事仲間がいて、私を求めてくれる人がいて、それが子どもの頃からずっと夢みていた仕事で。「うかうかしてると、夢は叶う」(by 折坂悠太)。そして、そういう時期なのだとも思う。引き受けたいこと、追究したいこと、掬いたい景色も収穫すべき言葉も、あっちにもこっちにもたわわに実っていて、それが稀有なことだとわかるから、つい欲張って目移りしてしまう。読書も並行読みしすぎて、全部中途半端に読みかけたまま。
移動続きの日々の隙間に、住みかの近くで藤の種をみつけて拾ったり、自分の手になじんだやりかたで野菜を蒸して慎ましく食べたり、ろうそくに火を灯して見たり、部屋を掃除して整えたり、友達と言葉をかわしたりすることが、文字通りの息抜きになって、なんとか持ち堪えている。
でもほんとうは、もっとじっくり、しんとした水面になりたい。いちばん微かな音で鳴っている詩にみみをすましにいきたい。地と図を反転させなきゃならない。会社を辞めたときや、東京を離れると決めたときや、ほかにもたくさんの、こまかな決断のなかで、小さく小さく、たまに大きく、暮らしの地と図を反転させてきたから、こういう私になった。だったらきっと、そのやりかたはもう、私の身体に染みついているはずだ。きょうが新月だってことにも気づかないなんて、そんな進みかたはだめ、たぶん、何かがとても、圧倒的に間違っている。
それで、きょうから師走だって? できるだけ走らないぞ、私は。