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 けっきょく車の運転を心から好きになってしまった私は、もっと車の旅がしてみたくなったのと、東北に分け入る夢を叶えるのはいまだと思って、奥会津に去年オープンした〈みみをすます〉というすばらしい名前の農家民泊に泊まってみることにした。

 若い夫婦が切り盛りしているこの宿のことは、最初はYがSNSでフォローしていたのを見て知った。でも調べてみると、妻の環さんはこの宿をひらく前、15年以上も昭和村に暮らして〈からむし織り〉という伝統工芸に深く携わっていた方で、私はからむし織りのことは、名前だけは明大のK田先生を通して知っていた(後日、K田先生からのメールに「奥会津に行かれたんですね!しかも環さんのところに」とあり、なんだか輪っかがひとつ閉じるような気持ちよさがあった)。予約のメールをいれたら、おそらく署名から私の経歴を知ったのであろう夫の八須友磨さんからの返信に「大崎さん、詩人さんなんですね!僕も詩を書くのが好きで、お会い出来るのが楽しみです!」とあって、私はびっくりして叫んでしまった。詩をかく主人の宿に泊まれるなんて、嬉しすぎた。それは、ここ最近の私が、詩壇のような場所から遠く遠く遠ざかった場所で詩とともに暮らすことを、もっともっとまじめに考えたくなっていたからでもあった。

 11月3日。郡山から会津若松まではよく晴れていて、行楽日和。只見線に乗って車内アナウンスに促されるままに磐梯山を見て満足していたら、そこを過ぎたあたりから急に濃霧になった。夏に燕岳に登ったときにも真っ白な霧で何も見えなかったのを思いだして、呆れてしまう。会津若松に着いたらまた晴れて、ほっとした。日産レンタカーまでてくてく歩いていって、車に乗って出発。車種はルークス。エンジンのボタンやフロントの画面は珠洲で乗った車とほぼ同じだった。
 H乃さんが事前に教えてくれたつるの湯とか、金山町までの道のりにぽつぽつ点在する道の駅に寄ってみようとしたのだけれど、三連休の初日でどこも大混雑していて、車を停めて施設に入るか入らないかのところで強烈な(これじゃない……)感があって、早々に退散した。山の上では混雑していてもわりと平気なのに、平地だと観光客に混じって行動することに嫌悪感を感じてしまう。山は、みんなが、誰に命じられたわけでもないのにわざわざ身体を酷使して登って下りる変態プレイの仲間だから、その変態ぶりを共有できてるから、大丈夫なんだろうなと思う。
 途中の道ばたで車を停めて只見川沿いの紅葉を撮影したりもしたけれど、けっきょく午後二時頃には太郎布集落に着いてしまった。ただの家、という感じに見える宿の入口で、こんにちはーと呼んでも誰もいなくて、何軒か向こうの家の前でススキ(?)の揺れるのを映像に撮っていた男性に近づき、向こうがこちらに気づくのを待って「このあたりの方ですか?」と尋ねた。
 その方は、自分は助産師の夫で、きょうこの家に赤んぼうが産まれたので、記念の映像を撮影している、八須さんたちも赤ちゃんを見に来ているから、呼んできましょうか、と言った。そんなことってある!?と思った。クリスマスみたいな日に来ちゃったなあ、と私は東方の三賢者もかくやという気分になり、そしてそれはとてもいい気分だった。だって辺りの空気はすごく静かで、その家のすぐ近所では猫や蜜蜂や鶏が飼われていて、ほんとうに、厩で生まれて動物たちも一緒に祝ったキリストの降誕の場面を思いださせたのだ。
 玄関先で待っていると、八須夫妻がはいはいーという感じで出てきてくれて、すぐに宿の部屋に案内してくれた。荷物を置いて、お茶をいただきながら居間の本棚を物色していたら、きーちゃんと呼ばれているサバ猫が私の膝に乗ってきて、乗ったまま落ち着いてしまった。環さんがそれをみて「あらーっ、きーちゃんどうしちゃったの、初めてのお客さんに、珍しい」と言った。そのとき、自分がいま来るべき場所にちゃんと来られたんだという実感がふつふつとわいてきて、私はとてもしあわせだった。しばらくすると、窓から見える銀杏の大木の隣の土地で自給自足しながら丸太小屋を建てているという青年が「こんちはー」とやってきた。琢也さんという名前のその青年は、八須夫妻を慕ってこの土地にやってきたらしく、本が好きで、金山町のマルシェでよく本屋の出店を出しているらしかった。「実は私がここに来るきっかけになったひとも、南伊豆で自給自足してた」とYのことを話すと、急に三人とも興味津々になり「え、友達?」「パートナー?」と聞くので「一瞬つきあってたひと」と言ったら、男の子たちが笑い飛ばしてくれた。「ここのこと、どこで知ったんだろうねえ」と環さんが興味深げに言った。
 谷川俊太郎の「みみをすます」の載った詩集が本棚の奥から出てきたので、私がますます嬉しくなって「あとでみんなで朗読会しよう!」と言うと、琢也さんが顔じゅうニコニコになって「え〜、今日はそういう感じかあ!」と言った。
 お風呂をわかす間、日が暮れるまえに琢也さんの建てかけの丸太小屋を見せてもらいにいった。いま暮らしているという掘っ立て小屋も、琢也さんは覗かせてくれた。「ソローみたい」と私は呟いた。琢也さんはもちろんソローを読んでいた。
 夕飯に食べたものを、思い出せる限り書いておく。だいこん煮物、小松菜ピリ辛あんかけ、赤かぼちゃ、ぜんまいと豆腐とはるさめの煮物、きゅうりのぬか漬け、さっき採ったなめこの味噌汁、新米の玄米ご飯、ビール、日本酒。玄米は香ばしくてほくほくで、「木の実を食べてるみたい」と私は言った。三人は、三人でビール一缶で十分酔っぱらってしまうと言い、久しぶりに飲んだらしく「ビールってこんなにおいしかったっけ」と口々に言った。日本酒は私が挨拶代わりに持っていった小瓶の「湘南」。
 夕飯が一段落してから、「みみをすます」を朗読した。環さんの好きな詩で、でも友磨さんは初めて聞いたらしかった。「大崎さんの詩はないんですか」と言うから、「あるよ」と言って「地面」という詩を暗唱したら、「僕はこっちのほうが好き」と友磨さんが言ってくれた。それから友磨さんがユーコン川をカヌーで旅したときに書いたという「風」という詩を朗読してくれた。すごくいい詩だった。谷川俊太郎の「朝のリレー」が教科書に載っていたのは環さんと私の世代までで、友磨さんと琢也さんは知らなかった。「生きる」を友磨さんが読んで、ななおさかきの「ラブレター」を琢也さんが読んだ。『プラテーロと私』をこの土地で読んだらめっちゃいいと思う!と私は薦め、彼らはメルカリで本を見つけてじゃんけんでどちらが買うか決めた。
 だいぶ酔いがまわってきた頃に、琢也さんは私の目を見て「この一冊、ってありますか」と聞いた。私は勢いで「ある」と言ったくせに何と答えるかずいぶん迷って、けっきょく『モモ』をあげた。台所で眠っていたとっておきの日本酒が開栓されて、夜10時頃まで私たちはずうっと喋っていた。環さんが「眠くないですか」と聞いてくれて、正直ぜんぜん眠くなかったけれど、おひらきにした。朝晩が冷えこんで、掘っ立て小屋は寒いので、琢也さんも居間に泊まった。

 翌日。集落を包みこんでいた朝の霧は、朝食の頃にはスーッと流れて消えていた。もう一匹の猫のサクリはハンターで、黒豹のように茂みに隠れて、昨日はねずみを獲り、けさはすずめを獲って、弄ぶんじゃなくちゃんと殺して、私たちにどーだと見せにくると、内臓だけ残して全部食べてしまうのだった。「もう、かわいそう。このあたりの小鳥がいなくなっちゃうよ」と環さんは嘆いて、私は「とりにく、おいしいもんね。とり刺し、かあ」と言った。慰めになってない。
 琢也さんは丸太小屋の建設に戻り、友磨さんは蜜蜂の世話をしに行き、私は集落の先の沼沢湖まで車で行ってみることにした。以前リトアニアで見た湖のことが、なんとなく頭にあった。あのとき、書き続けることを異国の湖に誓ったように、これから生きる方針を沼沢湖に誓えるかもしれないと、淡く淡く期待していた。湖畔のキャンプ場の駐車場に車を停めて、すこし歩いた。清々しい景色だったけれど、思考はぜんぜん冴えなくて、何かを誓うなんてことは、とうていできそうになかった。いまからダムの放水で湖が増水します、湖にいる方は注意してください、とアナウンスが聞こえた。なんとなく湖面を見ていたけれど、増水したのかどうかよくわからなかった。
 太郎布に戻って、さっき環さんがインスタグラムにあげていたみょうがの赤い花(10年に一度しか咲かないとかで、見たひとにはいいことがあるらしい)を私も見たいとお願いして、その場所に連れていってもらった。いくつもの赤い花が、湿ったふかふかの枯れ葉のなかに咲いていた。雪の季節もいいですよ、電車で来たら私が迎えにいけます、と環さんは最後に言ってくれた。
 会津若松までは、昭和村を通って帰った。途中のやまか食堂で、ソースカツ丼と味噌汁、950円。なんだか朦朧としてくるほどまっすぐな、長い長い出来たてのトンネルを通った。トンネルは怖い、暗くて狭くて猛スピードのままどこかに車をぶつけそうだし、いつ終わるのか、自分がいまどのくらいまで通過したのか、感覚できないから。トンネルを抜けるたびに、恥ずかしげもない紅葉が目の前にどんどん現れて、うわあ、うわあと口からこぼしながら、私は車を走らせ続けた。