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水曜日の夜。哲学者の永井玲衣さんと写真家の八木咲さんが主催する「せんそうってプロジェクト」の対話の会に参加した。20人くらいのひとが集まっていて、玲衣さんがきりだした「my war」というキーワードから、それぞれのひとがいろいろな、自分と戦争にまつわる話をはじめた。あっというまに、2時間が過ぎた。

永井さんからこの対話篇への参加を呼びかけるメールが届いたとき、私はほとんど考えるまもなく申し込んでいた。いま、その会場から帰る電車のなかで、この日記を書いている。
なんでもいいからひとと会って話をする機会を、縋るようにもとめる気分がなんとなくずっとあった。それで、慣れない場所、初対面のひとがいる場所に、あえて自分をひきずりだすようなことを、立て続けにしていた。そういう場所での所在なさに、自分の身体がどう反応するのか、ちょっと自傷に近い感覚で試しているようなところもあった。
でも、行けばかならず、ひとのやさしさに触れる。慰められる。全員が見知らぬ人というわけでもないし、思いがけない再会があったりもする。それがだんだんわかってきた。すこしずつ違う考えかたをもって、ひとりひとり生きているまま、なにかをよすがにして、集まる。発言しないひとは発言しないまま、なんの問題もなくそこにいる。戦争という言葉の巨きさに、私はひるみつつも、ひとりひとりの言葉から漏れてくる実感の手触りみたいなものに、やっぱり慰められていた。

もっと正直に書くなら、いま私は、「詩人・大崎清夏」としての言葉が、人前に出るほどどんどん上達してしまうのが、嫌になってもいるのだった。もっと言葉が下手になりたい。包まないまま投げ捨てたい。その方法がわからなくて、じりじりしてもいるのだった。

こういう動きかたが自分にどう沈殿していくのかは、まだわからない。でもたぶん私はいま、自分の外に出ていきたいのだろう。風で道の脇に落ちた、小枝のようなものになりたいのだろう。そういう私自身を、じっくり引き受けてやりたいと思う。

戦争について誰かと話したいことは何ですか、と最後に玲衣さんがひとりひとりに問いかけた。たくさんのエピソードや思考を浴びたばかりの頭で、私は混乱しながらも、「自分や自分の大切な人を守りたいと思うことと、人を殺したい、殺さなければならないと思うことの間には、どれほどの距離があるのだろう、ということを、考えたい」と言った。